亡き者と共に生きること――もののあわれの死生観

福州大学外国語学院日語2019 翁雪婷

 

 2020年、新型ウィルスの蔓延によって、中国で多数の犠牲者が出た。その新型ウィルスは、現在でも、日本を含め、各国で被害をもたらし、犠牲者は日々増え続けている。この状況を見ると、「露の世は露の世ながら、さりながら」という小林一茶の俳句を思い出す。そして、どうしようもない「哀しさ」を感じながら、その「哀しさ」から逃れられないという「歯がゆい気持ち」になるのだ。

 しかし調べてみると、小林一茶の俳句には、日本の「もののあわれ」の感覚があるそうだ。「もののあわれ」とは、一刻一刻と変化する物事に対する情緒である。それは常に移ろう「無常」を表し、俳句などで表現すると、一種の「哀しさ」とともに「美しさ」に溢れた世界が広がる。私は、映画『海よりも深く』を観て、この「もののあわれ」につながる「日本独特の死生観」を感じ取り、ずっと感じていた「哀しさ」が和らぐような感覚になったのだ。

是枝監督の映画『海よりも深く』は、離婚した男性・良多が、母・淑子の家で、元妻・響子とその息子・真吾と再会し、台風のなかで一夜を過ごすというストーリーである。そのなかで、淑子が亡き夫についてこう話す。「蝶々がずーっと後をつけてきてね」「私、お父さんと思ったのね…」。亡き夫は、ギャンブル好きで、家庭を顧みない、不甲斐ない夫だった。しかし、そうであっても、亡き夫の生まれ変わりともいえる「蝶」との出会いを淑子が語るのは、「亡くなってもなお、夫が私のそばにいる」と思っているからだろう。つまり故人は、生者にとって、人生のなかでの美しい思い出として残るのだ。

亡き夫が蝶になっていると信じる祖母。私はここに、「死と共に生きる」という死生観を見た。それはまさに「生は死であり、死は生である」ということ、「いつか死ぬという哀しみに襲われるからこそ、今の命を精一杯生きること」である。生と死の間に境界はなく、死があるからこそ、生は豊かに美しくなる。そのため、生を終えたとしても、その死は、生者の人生に深く寄り添い続けるのだ。

中国人にとって、死は永遠の別れである。しかし、日本人にとって、死は別れではなく、生の延長である。人生とはまるで、桜が散りながらも燦々と咲き誇るように、常に誰かが死に、何かが去り行く哀しみのなかで、その「哀しみ」と共に、精一杯生きる「美しさ」が一体となったものなのだ。これが『海よりも深く』から学んだ「もののあわれの死生観」である。

世界中に蔓延した新型ウィルス。犠牲者が増えるたびに哀しい気持ちになる。しかしその哀しみを少しでも癒すため、犠牲になった多数の人々、そして今なお身近な者の死に哀しみを抱いているすべての人々に、哀悼の意を込めて、私はこう伝えたい。「死者はずっと生者に寄り添い、見守っている」と。この考えこそ、一日として死が絶えることがない、哀しみに溢れた世界での、唯一の救いではないかと思うのだ。

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