限りのある人生惜しむべし

南華大学語言文学学院2019級 籽言

 

中学の時、祖父から特別な誕生日プレゼントをひとつもらった。

琥珀だった。よく見ると、琥珀の中に今にも飛び出しそうな小さな虫が見えた。私はこのプレゼントが気に入った。そして、その虫にも興味を持った。

「この虫まだ生きてるの」私は祖父に聞いた。

「残念ながらもう死んでいるよ。いつまでもこの石の中にいてもひとりだしつまらないだろう?だから死ぬことにしたんじゃないかな。」祖父はこう答えた。

私はまた聞いた。

「どうしてつまらないの。ずっと生きられるっていいじゃない?」

答えがなかったのは、その時電話が鳴ったからだ。祖父との話題は中断され、私の質問も棚上げになった。今度帰ったらもっと詳しく聞こうと思ったのに、祖父はその年の秋に亡くなった。結局答えはわからず、そのまま私の心の中に残った。祖父の死に悲しんだ同時に、命という存在はまさに朝露のようなはかないものだと、深く感じでいた。

それから、私は成長するにつれてその答えがわかるようになった。琥珀の中の虫の死はとっくに決められた事実で、孤独なんてまったく関係ないと知っていた。世の中のすべては限りがあり、時間になればすぐ消えていく。時間が短いがしたいことは山ほどある。だから人は長生きを憧れ、古代中国の皇帝が不老不死の薬を求めたのもおかしくないのだろう。

中国文学では高くそびえ立つ山や続々と流れる川を求める一方、ひらひら散る桜や消えやすい霞など、特に日本人に好かれているようだ。私は中国と日本の文学における考え方の違いに興味を持った。したがってある日、本屋で「徒然草」という本に見つけた。

「風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に。」中国では、「徒然草」といえば、この文がよく知られている。しかし私はそれより、もうひとつの文を理解できるかもしれない。

「世は定めなきこそいみじけれ。」

この文を通じて、日本文化の無常や物の哀れを理解しはじめた。四季の移り変わりから面白いが感じられる。綺麗に咲いている桜は雨に打たれると散ってしまうが、散る日が無ければ、花が開くときの喜びやそれがやがてくちていく悲しさを味わうことさえできなかった。花時ある故にえも言われぬ趣がある。桜だけでなく、あらゆる物は消えてなくなる。吉田兼好もこういうところを見極め、透徹した文章を書いたのだろう。

朝顔という花がある。1年も生きられない。春に植えて秋には枯れが、花の色は様々だ。また、限られた命の中で人を助けたり、科学の発展に貢献したりすることに意味があると思う。死は悲しいものであるのは間違いないが、そこから得られる生きる価値はそれによってより大切なものになる。人々も、人生の短いところを認識するからこそ時間の貴重さを感じたり、一生懸命それぞれの夢を叶えたりする。私は琥珀の中の虫より、朝顔になりたい。自分の夢を叶えるため頑張って有意義な人生を過ごすことができれば、長生しなくてもいいと思う。刺激のない毎日を送るより、限りある生命でもよく生きることに意味があると考える。

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