「WOOD JOB!神去なあなあ日常」を見て

大連大学日本言語文化学院2019級 龔婧

 

WOOD JOB!神去なあなあ日常」という映画は、大学受験に失敗した都会育ちの主人公勇気がなんとなく林業の研修に参加したことをきっかけに、徐々に林業と村の生活に愛着を覚えていくというストーリーだ。この映画は「林業」という職業を世間に知ってもらう目的として作られたと思うが、私はこの映画からその目的以外に、何か違うものを捉えた。

それは人生というものは実は少なさの中にこそ豊かさがあるということだ。

研修の間に、勇気はこれまでと違う生活を経験した。最初は川の水を飲んだり、死んだ鹿の肉を食べたり、スマホも使えない貧しい田舎の生活になかなか慣れず、逃げようとしたが、最後はこの田舎で暮らすことにした。よく考えてみたら、その「貧しい生活」が主人公の勇気に希望や幸せを与えたのだと思う。

「貧しい」というのは金銭的なことではなく、外部の情報との接触量が少ないことを指しているのだ。自然と長く接している神去村の人たちにとって、面白い情報は日常から生まれるのだ。雪さえも彼らをはしゃがせたり、村ではカップルが別れたことでもビッグニュースになったりする。けれども、カラオケやゲームなど、よりハイグレードなものにこそ面白さがあると思っている勇気にとって、村のニュースは大したことではないのだ。しかし、勇気も自然と触れ合っていく中で、余計な情報を除外していくと、木の葉の香りなど日常生活の中に溢れている可愛さも感じるようになった。今の社会では、大統領選挙から食事のこと、自分の生活に関係するしないに関わらず、様々な情報に振り回されて、私たちは段々基本的な幸せを感じられなくなってしまった。それはもったいないことだ。

そして、「貧しい生活」の中で、人間味も増えてきた。

この映画には「農業やったら、手間ひまかけて作った野菜がどんだけうまいか、食べたもんが喜んだかわかるけど、林業はそうはいかん、ええ仕事をしたかどうか結果が出るんはオイらが死んだ後なんや、まあなあなあやな」というセリフがある。これが林業の魅力なのだと思う。後世の人たちがこの自然環境で生存できるように、神去村の人たちは一生をかけて森を守っているのだ。結果が出なくても頑張っているのは自分の利益ではなく、他の人を生きていかせるためなのだ。いつも金銭の欲や物欲を満たそうとしている都会生活に比べて、人間味が溢れた願いしか持たない神去村の人たちは、目標がはっきりし、重い責任を負うと思っているから、余念がないのだろう。人は余計な欲望が抜けると、人が人のために生きていくことが何よりも大切だということがわかるようになるのだ。

したがって、勇気は、林業と田舎の生活が好きになったように見えるが、実は余計な情報をなくしてから感じた日常生活のありがたさと他人のために一生を捧げる達成感が好きになったのだ。物が少なくても、心は豊かにできるのだと、私は強く感じた。

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