『羅生門』の「下人」像に垣間見る、芥川の精神的葛藤

東北師範大学日本語学部4年生 張博

 

芥川龍之介の『羅生門』は、極限状況における善と悪の境界の揺らぎ、及び人間の業であるエゴイズムをテーマにしているように見えるが、『羅生門』の裏に隠れている、芥川自身の精神的葛藤が見落とされている。

『羅生門』の主人公の「下人」は、極限状況の下、死か盗人になるかの選択ジレンマに陥っていた。「老婆」が死人の髪の毛を抜くのを見た時に道徳的な「悪を憎む心」を激しく燃え上がらせたものの、すぐに心を鎮めてしまったのは、良心の呵責というよりも、世間の道徳的制限に縛られながら中途半端な生き方しかできないことの証だと言えよう。『羅生門』における「善」と「悪」の対立は、新しい境遇に求められる新しい考え方と、これまで守ってきた生き方や価値観との対立に外ならず、「下人」はその間で揺れ動いていた。しかし、「老婆」の極限状況における悪の考え方に影響された彼に、「さっき門の下で欠けていた勇気」が生まれたのである。それは世間的な道徳に反する悪を決行する勇気ではなく、自分なりの新しい道を開き、貫き通す「勇気」だった。

芥川一流の皮肉な眼差しの故に、彼はともすれば「傍観」者と見なされがちであった。そのため、『羅生門』のテーマに関する従来の解釈は、「下人」の心境の明滅に芥川の良心的葛藤が隠されていることが見落とされがちだった。しかし、人間のエゴイズムの醜さを嘲笑したいがために、エゴイズム同士が対立し合う世界を描くような悪趣味など彼にはない。芥川を傍観者ではなく、経験者という立場に置けば、「下人」というシテの言動に芥川自身への鋭い視線が向けられているのが見て取れる。周知のとおり、『羅生門』創作の背景には、芥川の失恋があった。周囲に反対されれば迷ってしまう優柔不断な自分に対する忸怩たる思いが、「下人」の激しく揺れ動く心境に自己の分身として投影されていると見てよい。つまり、「下人」の心理的葛藤が、恋愛における難局と重なるのである。芥川の「悪」の判断基準は、家族をはじめとする、いわゆる「世間」に対する反発だったと考えられる。彼は「悪」を行う勇気、すなわち家族の反対に直面した際に欠けていた勇気を「下人」に託した、と考えられる。さらに、「下人」への芥川自身の投影は、失恋の悔しさの代償行為にとどまらず、芥川生涯を貫く、自分自身が受け入れ難かった、母の発狂等に起因する「唯ぼんやりした不安」しか持っていない自我への励ましという「叫び」とすら言えるだろう。

しかし、芥川が本当の自分のままで生きるのは、さすがに困難であろう。『羅生門』後の「下人」が、自我を貫くであろう世界のイメージが「黒洞々たる夜」であり、最後の一文が「下人の行方は、誰も知らない」と改変された点にも、「下人」、すなわち芥川自身の生き方・価値観に対する世間の評価や思惑から抜け出しきれない、一種の「ためらい」が芥川の決意を叩きつつあり、その結末をも運命的に暗示していると言えよう。

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