物の哀れを味わう--「秒速5センチメートル」を読んで

四川外国語大学日本語学院2020級 王小双

 

 「桜の花びらの落ちるスピードだよ。秒速5センチメートル」

再び出てきたこの言葉に強く心を震わせながら、ゆっくりと本を閉じた。一冊の本を読み切った解放感に、物語の結末に落ち着いた気持ち、更にこれほど共感を与えてくれた物語の終わりに対する物足りない気分もあり、暫く何も考えられず、ひたすら本の余韻に浸っていた。

 今回、『秒速5センチメートル』の本を初めて読んだのだが、その物語の内容は中学生だった5年前から知っていた。それは、新海誠が監督したアニメーション映画を、自ら繊細な筆致で小説化した本だ。アニメを初めて見た時の私はまだ幼く、主人公である遠野貴樹のデリケートな気持ちをよく理解できなかった。

それにしても、物語の所々に音もなく舞っている桜と、いつも別れと共に出てくる雪が記憶の深くに残っていた。それを思い出すたび、理由もなく切なさが心の底から湧き上がってくる。その後、時間の経つにつれて少しずつ成長してきた私は、徐々にその切なさの正体がかすかに見えるようになった。

その切なさは、いわゆる「物の哀れ」という日本独特の美意識から生み出されたものだと私は思っている。美しい桜は咲いて間もなく落ち、お月様は満ちてすぐ欠ける。いくらそれらの美しきものが去っていくのを止めようとしても止められない。しかし、少なくともその刹那の美しさを嘆く事はできる。確かに美しかったという事こそ人の心を動かすものだ。

そこにおいて人間も全く同じだ。貴樹は幼少期からよく転校しており、小学校の時は転校生同士の明里とすごく親しくなり、そして惹かれ合いながらずっと一緒にいたいと願っていた。しかし、結局二人は別々の学校に進学して願いが叶わなかった。そして、何度も別れを味わった貴樹が、過去の悔しい思いを捨てて、前へ進むことに決めたところで小説は終わる。

桜は来年の春にまた咲き、月も来年の中秋節にまた満ちる。しかし、すれ違った人々は二度と戻ってこない。貴樹のことを見て、物の哀れより人の哀れはもっと辛いとなんとなく思った。

ふと私は、貴樹と多くの所で似ている事に気付いた。同じ寂しがり屋の少年であり、同じく迷ってばかりでいたことなど。それがためか、「ほとんど灯の消えた高層ビルはずっと昔に滅んだ巨大な古代生物のように見えた」と書かれているシーンが、私が高校生だったある夜に校舎の廊下から見た景色と重なった。賑やかに輝いていたビルもついに真っ暗になる。夜遅くまでも明かりを灯している校舎を背景に、灯を失っても何も言わずにただそびえたっているビルに起こされた寂しさがひとしおだ。物の哀れの美を強く感じたのはその時からだろう。

国が違っても、人の感覚は共通な事が多い。物の哀れを知れることは、私に貴重な思いを多く与えてくれた。滅びの美を知ったからこそ、滅びる前に大切にするようになれる。

 

(新海誠——『秒速5センチメートル』)

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