生きる意味

嶺南師範学院外国語学部三年生 鄭丹淳

 

生きる意味は一体何だろうか。それは救済のためだと主張する人もいれば、理想と信仰のためだと主張する人もいる。人によって答えは違う。さらに、その答えさえも分からない人もいる。

「なりたい者と向いている者が違う時、人はどうすればいいか。生き方の正解を知りたくて、誰も戦ってる。何を求め、戦う。どうやっていける。答えは誰も教えてくれない。我々あるのは迷う権利だけだ。溝の奥へとあてもなく走り回り、泥まみれのストレイドッグスのようだ。」

これは「文豪ストレイドッグス」というアニメから出てくる言葉なのだ。我々はストレイドッグスのように、世界を探索していくうちに、自分自身を認識し、自分が何のために生きてきたのか分かるようになる。

「文豪ストレイドッグス」のキャラクターの太宰治もそうだ。彼は苦しい経歴があり、失いたくないものは必ず失われると思っている。彼にとって、「苦しい生を引き延ばして追い求めるなんて何もない。」したがって、彼はずっと生きる意味を探している。私もそうだ。子供の頃、いろいろな事情で友達が自分から離れていった。その後、肉親の死は私に人生の無常を深く感じさせた。別れや失うことを恐れ、ますます人やものに感情を移入したくないようになった。そのため、私にとって、世の中に切っても切れないものはない。たぶん私はこの世に未練がなかったかもしれない。だから、私は生きる意味も分からず、答えを探し続け、悩んでいた。

最初、私は生きる意味は必ず何か明確なものだと思っており、考えれば考えるほど迷っていた。「文豪ストレイドッグス」の登場人物の太宰治のように、答えが分からないままに生き、悪と正義に近づき、その答えを探している。しかし、角度を変えて考えてみれば、探すこと自体が生きる意味なのではないだろうか。中島敦は幼い頃から孤児院に捨てられ、虐待を受け、自分の存在の価値を疑っていた。しかし、自分の存在の価値を見つけながら人を救うことで、生きる許可をもらい、ますます自分の価値を肯定するようになった。「探す」ことを生きる意味にしているので、迷うことはないのだ。もし生きていることは苦しいことや楽しいことなどを経験し、心の底から求めていることを探すことを意味するならば、それでは私は楽しんでこの一生を送る。もし見つからなかったとしても、私は人間の世界に来たがいがある。なぜなら、生きる意味があり、私にはもう思い残すことはないからだ。

余華が彼の『生きている』という有名な小説にこう述べている。「人は生きることそのもののために生きている。生きること以外の何かのために生きているのではない。」生きているなら、その意味がある。「文豪ストレイドッグス」の話が続いているように、私も人生を探索し続けている。

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