私たちは「青年紳士」なのか

湖北大学 李欣桐 

宮沢賢治に『注文の多い料理店』という童話がある。物語は、見栄っ張りな二人の青年紳士が二匹の犬と猟に出かけるところから始まる。山中で見つけた一軒の西洋風レストランに入り、店側の「注文」に沿って奥へ進むが、どうやら自分たちが料理されるらしいことに気づく。間一髪で、死んだはずの二匹の猟犬に救われる。動物を狩猟する二人の青年紳士が、危うく山猫に食われかけたという話である。 

人類が未開の状態にあった昔、人類と野生動物はお互いの狩猟対象であった。しかし、文明が進み、生物界の王者となった人間は、動物を自分の都合によって、ペット、家畜、実験動物、展示動物、野生動物などに区分けした。 

一匹の犬がペットになるか、食材になるか、その運命は所有者の恣意、またはその国の文化によって決まる。高度消費社会では、いろいろな動物が食材となる。ヨーロッパでは兎や羊が食材として売られ、アフリカではコウモリやサルが食べられる。日本人には鯨食文化、韓国には犬食文化も存在する。食材になる動物は、人間からすれば嗜好品、あるいは金儲けの道具でしかない。童話の中の二人も、動物を狩猟という遊びの対象とした。「鹿の黄色な横っ腹なんぞに、二三発お見舞いもうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ」という言葉には、生命の尊厳に対する敬意のかけらもない。二匹の猟犬が死んだかに見えた時、「僕は二千八百円の損害だ」などと言う二人には、金銭至上主義の強欲はあっても、犬に対する愛情はない。 

生命の尊厳を無視する二人を批判するのはたやすい。だが、私たち現代人にも、お金のためなら他の人や人間社会がどうなろうとも構わないと考えている節がないか。例えば、川や海を汚染しても平気な工場。有害食品を子供に食べさせても、儲かればいいと考えている企業。会社に限らない。オレオレ詐欺で、弱い老人から金を巻き上げる犯罪者。高級車を暴走させて何の罪もない人をひき殺す成金。彼らは二人の青年紳士そのものだ。 

しかし、汚れた川や海から採れた魚を食べるのも、青年紳士である現代人である。よその会社が作った有害食品を食べるのは、青年紳士の子供たちかもしれない。彼らは年をとってからオレオレ詐欺の被害に遭うかもしれないし、道を歩いていて暴走車にひき殺されるかもしれない。結局、現代人も飽食の挙句に、飽食の対象となってしまったのだ。 

仏教には「草木国土悉皆成仏」という言葉がある。また、日本古来の神道は、森羅万象に「八百万の神」を見いだした。雑草にも蟻んこにも、命の重さがある。人間が安易にそれら命を奪っていいはずがない。私たちが肉食をやめることはできそうにないが、動物の命を軽視することはあってはならない。いや、それ以上に、知らず知らずのうちにお互いを傷つけあうという私たち現代人のあり方を、根本的に考え直すべきなのではないだろうか。 

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