『源氏物語』に見る古典の美しさ

中国人民大学 胡俊 

  

古典とは何か、高度発達した現代社会において古典を学ぶ意味は何か、以前からこういったとりとめもないことを考えるのが好きだった。しかし、どんなに思考を巡らせても答えが出なかった。別に解決しなくても生活に支障がないから、ただただこれらの問題を抱えつつ日々を送ってきた。このような私を変えたのは『源氏物語』との出会いだった。 

平安時代の物語の集大成である『源氏物語』は、貴公子光源氏の華やかな恋愛遍歴を中心にその赤裸々な愛欲生活を描いた。「色好み」に沈淪した結果、光源氏はとうとう最愛の紫の上を失い、苦悶に満ちた晩年を送った。物語の最後の「宇治十帖」で源氏没後、その子の薫大将を主人公として話を展開した。 

このような描写の中で「もののあわれ」、つまり、あらゆることに心の感動が生じ、しみじみとした感覚が一貫している。例えば、花を見ると、その花に自分の感情を移し入り、共感して哀歓を感じることは「もののあわれ」だ。 

コンクリートや鉄筋などで構築された近代的な高層ビルに生活している現代の私たちにとって、このような美意識はまことに貴重なものだ。社会という巨大なシステムに駆り立てられ、一刻も惜しんで仕事に身を投じる現代人は自分の身を「もの」と共感する暇もなければ、興味もない。外から見ると、人は人のままだが、内心がすでに虚ろになり、感情も人間味も消えた。 

ただ機械さながらにひたすらに働く人間は、高度発達した社会を作りあげた。そして、人々は自分たちによって作り出された近代文明に驚嘆し、もはや我々は古の人をはるかに超えているのではないかとの自負も多かれ少なかれ抱いている。だから、「現在と何世紀も隔たった古代人の手になる作品など学ぶ意味はない、近代技術こそ我々の力を入れるべき方向なのだ」などの考え方が横行している。しかし、ひたすら近代文明に酔心する人々はいつの間にかに冷淡になり、利益を追求するばかりで、真に大切なものが見えなくなる。「もの」の哀歓を味わう「もののあわれ」はだんだん私達から離れていく。 

だから、このような社会においてこそ、古典作品を読まなくてはならないのではないかと思う。近代とは異なる古典ならでは美しさを再発見することによって、現代人の心を癒すのだ。『源氏物語』からもう一度「もののあわれ」を体験し、冷血漢にならないように自分の感情を「もの」に寄せて、「もの」と共感して、凍りついた心を再び温めるのだ。近代においてもう一度古典の美しさを輝かせよう。 

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