運動――技能と心の練磨

 上海外国語大学 曾偉祥 

私は運動することが好きではないのですが、運動の関連する本や漫画は大好きです。 

主役たちが持つ秀でた素質が羡ましいのか、同年齢の人と汗を流す熱い青春がいいのか、あるいは以前の運動の経験に対するわずかな懐かしさがあるのか、はっきり言えませんが、そこに描かれた勇敢に夢を追うきらきら光る目の少年少女を見ていると、彼らを通して数年前の自分の影を見るような気分になります。 

私も運動が好きで情熱を注いでいたことがあります。 

しかし神様の悪戯か、私にはどんな運動の素質もないようです。負けず嫌いなのですが、速さ、技巧、持久力……どれも頭痛がやまず、どれほど努力をしても最後には得てして無駄になり、成果が得られず、残るのは数え切れない涙、汗、青紫色の永遠に消えない傷跡ばかり。少年の私にとって大きい打撃でした。 

しまいに時間が若い情熱を持ち去り、挫折で再出発する勇気がすり減りました。また負傷して医者から長期の静養が必要と言われて以降、すべての運動を諦め、運動が好きではなくなりました。 

しかし同様に挫折を経験しても、小説や漫画の主役たちには良い結末があるようです。素質の平凡な少年が新しい道を切り開き、バスケットボールの独自のプレイ方法を探し当てて、同様に素質があるとは言えないチームメイトと多くの「天才」と呼ばれる相手を打ち負かす話。未来の目標がなく、社交ダンスに触れたこともない少年が、ダンスへの愛と努力によってアマチュアダンサーの身分で国際ダンス競技の場に躍り込む話。試合に負け続けたため引退して帰ると決めたフィギュアスケート選手が、友やライバルの激励のもと自分を見つけ出してリンクに戻る話…… 

彼らの負けを認めない不屈の精神に心を動かされたのか、それとも心の奥底に隠れた消えていない少年の情熱の炎が引き起こされたのか、私は十数年ぶりにスケート靴を履いてリンクに再び立ちました。たとえ時間が経ちすぎて以前スケートを学んだ記憶がはっきりしないとしても、心から愛して大量の時間を投じた訓練はすでに筋肉の記憶になっており、呼び覚まされる時機を待っているだけでした。驚いたのは、まだエッジの起こす氷紋、頬に吹く少し冷たい風、続けて転ぶ感じまで懐かしくて、なじみがあるのに新鮮だったことです。 

リンクに戻る契機になったのは、三浦しをんの『風が強く吹いている』です。性格も出身の背景もばらばらな十名が、寮友の寄せ集めた長距離チーム「選手」として、ゼロから日本一歴史のある駅伝「箱根駅伝」へと突き進む話です。メンバーの半分は長距離走の経験がなく、初めはトラックなのかさえ知らない人もいました。参加したのが興味を持ってか、場の流れでか、迫られてかに関わらず、最後には彼ら全員が自分の性格に適した区間を走り切り、それなりの成績を得ています。 

作中では長距離走に関する話しか述べられていませんが、物語の全体で示された矛盾と現実はすべてのスポーツ競技の縮図と言えるもので、社会全体の縮図と呼ぶに足りるものです。努力の「天才」、心の脆弱な「凡人」、失敗したことのない「優等生」、どれほど努力しても一番になれずそれでも断念しない人……、一人一人の生き生きとした像が背景の制約を抜け出て現実にやってくるようです。日本の漫画や本が平凡な人ばかり主役にしがちなのは、世の大多数の人は、人海の中にいる普通の珍しくもない一人でも、それぞれが自分の生活の主役で、一般人は奇跡を創り出せるからなのだ、と急に分かりました。 

長距離走と同じく、スケートも孤独なスポーツです。素質はもちろん重要ですが、こうしたスポーツそのものがある種の考え方の試練で、どんな方法で訓練するべきか、どう維持するべきか、一歩一歩が大脳と体の調和と抗争なのです。 

時が経つにつれ、リンクに戻って2年ほどになる私は、十数年前と同じように、やはり周囲に素質ある人の光芒の下では平平凡凡に見えることを実感しました。素質のもたらす隔たりは除き難いもので、小さい頃からその道理は分かっていましたが、再び実感してみると意外にも落ち着いていました。 

今頃になって、自分を誰とも比較する必要はないことを知ったからというか、たとえ比較するとしても、縦方向の比較をするべきなのです。過去の自分、現在の自分、将来の自分の比較であって、周囲の「天才」や「努力家」との比較ではないのです。世界にはやはり私よりもっと高い素質がある人も、私より努力する人もいます。 

たとえ現実に国際試合に参加するプロ選手だとしても、自国でトップクラスであっても、決して全員が国際大会の表彰台に立つ機会はありません。 

どんな物事に触れても競わなければならないとは限らない、ということにもとうとう気づいたのです。より高い目標と業績を求めるのはもちろん間違いではありません。結局オリンピックのスローガンさえ「より速く、より高く、より強く」なのですが、オリンピックの格言には「勝つことより参加することに意義がある」というものもあります。一般人にとってスポーツに参与する本質は、体を鍛え、心を磨くことであるはずで、そこから派生した大会や競技は副次的なことであり、言わば「参加することに重心がある」のです。クーベルタンはこの話を引用してから透徹した説明をしています。「生活の中で重要なのは凱旋ではなく奮闘であり、その精髄は勝つためにではなく人類をより勇敢に、より壮健に、より慎重に、より鷹揚に変えることである。これは我々国際オリンピック委員会の基本思想だ。」 

私もついに単純な興味のため運動に参加して、運動のもたらす楽しみを味わうようになりました。たまには大会に出ることもありますが、出るまでの準備過程のほうが得てして結果より深く印象に残ります。準備過程は私にとって技巧を磨き欠点を補うよい機会であり、結果は私にとってすでにそれほど重要ではなくなっているのです。 

アフリカの経済学者Dambisa Moyodead aidという本の結びにあるThe best time to plant a tree was 10 years ago. The second best time is now.(木を植えるのに最適なタイミングは十年前、その次は現在である)という言葉のように、十年前の私は視点が人との競争に限られており、運動の真の魅力を理解する機会を逃しましたが、その点に気づいて以降、今は何も遅すぎることはないと思っています。また「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉もあるように。私は依然として転び続けて青あざだらけですが、以前とはまったく異なる感覚です。忌まわしい失敗者の証などではなく、平然と受け入れられるもので、誇示するに値する勇敢な者の勲章でさえあるのです。  

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