浮世絵――歴史を振り返って見る希有な美しさ

 

 華中師範大学 張紫薇 

歴史の輝く絵巻を広げ、その中に刻まれたさまざまな物語を記録する模様をそっとなでると、果てしない道、盛衰の交替、変幻無常を感じ取れます。気力がみなぎっている様子が紙上にありありと現れているのです。時には清々しい風が吹き、物語を深い眠りから呼び覚まして、その神秘的なベールを開きます。時には砂ぼこりに覆われ、貴重な宝物がまたひっそりと埋もれて、次に現れその華やぎを見せる機会を待ちます。この歴史の浮き沈みの間で、鮮やかで美しく華やかで目を通せば忘れ難い、しなやかで美しい神秘的な東方の女子が揺らめく美しい姿で征服したような世界――それは江戸の時代に流行した浮世絵です。 

たまたま見つけた本の中で、たくさんの感嘆病まぬ浮世絵に出会い、一幅一幅の精巧な景観に深く揺り動かされました。中でも葛飾北斎の作品には確実に心服しました。かつて魯迅先生も日本の歌人、山本初枝との私的な書簡の中で、「中国の一般人の目に向いているのはやはり北斎だと思う」と述べています。また彼が若いころ一番のお気に入りだった浮世絵師も北斎です。書中で真っ先に目に映ったのは「富岳三十六景-五百らかん寺さざゐどう」です。画面の中では佳人の群れが展望台のそばで伏しており、はげ頭の旅人が欄干の基礎に足をかけ、身をかがめて遠くの富士山のほうを少しでも向こうとしており、動きが生き生きとして喜劇味にあふれています。欄干のそばにいる一同の眼光は誘導され、いっしょに遠くの富士雪山を眺めていますが、額に手を当てて袖に風を通している人物もいます。2人の美しくしとやかな女性がわずかに足を踏み出し細い腰をしならせている姿がしなやかで美しく、地べたに座って歓談している旅人もおり、甲板に登ったり触ったりしてはしゃぐ子供も描かれ、妙趣に満ちています。俗世の多くのかわいさが一望ですべて見渡せます。浮き沈みのある世の中で、こうした簡単で気楽な、憂いも心配もない市井の生活にはあこがれます。話によると「富嶽三十六景」の流行当時、東京を旅する観光客は皆こうした五百らかん寺の絵をお土産にしていたそうです。江戸に戻り、このあこがれの風景を望んで、そうしたお土産を持ち帰り、描かれた平凡な生活の中にあふれるのどかな良さを贈りたいと夢見てしまいます。 

五百らかん寺の満足に揺り動かされあこがれる、と言うならば、「神奈川沖浪裏」が与える視覚的な衝撃と震撼は完全に異なるものです。画面の中で見えるものには国境を越えて通じるものを感じます。波は誇張された弧度に巻かれ、尾端は雄壮で力強く竜の爪ようで、天地をのみ込むほどの気勢があります。白光りするしぶきが引き立てる中、遠近の間が、富士山の上に雪が降るようでもあり、光と影の目まぐるしく変化する境目が見えつ隠れつし、絶妙ではかり知れないものがあります。果てしない霧にかすんだ水面、巨大な波の中にいる2隻の小舟は、とりとめもなく揺られるがまま。船上にいる漁師の表情は分かりませんが、海と取っ組み合う姿は生き生きとしています。その情景には、見る者の心さえからみ合ってしまいそうです。たっぷりの「プルシアンブルー」と強烈な対比のある動的視覚の版により、波が激しく相打ち沸き上がる様子が生き生きと表現されており、画面は躍動感いっぱいです。北斎の波の動きの細かな捉えぶり、ずば抜けた絵画の技巧に驚嘆しました。また彼が作品で全世界に意気盛んな東京の故郷を見せつけ、漁師たちの勇敢さに対する粘り強い賞賛の勇ましいことに感慨を覚えました。だから、この高い波が浮世絵の芸術の最も鮮明な標識になって、中国も西洋も横断しているのです。浮き沈みの中で不撓不屈の、障害をものともしない漁師はまた、日本の労働者の剛毅で勇敢な精神を象徴しています。故郷に対する誇りと未練をいっぱいに含んだものでなかったら、これほど人を感動させる絵は創作できまいと思います。  

北斎はそのタッチで人を陶酔させる自然の美しい景色を描き出しますが、喜多川歌麿が描く美人図はあでやかさで感動させる、やはり目を通せば忘れ難いものです。彼は社会の最底辺に位置する歌舞伎に対しての深い哀れみを顔料に混ぜ込み、江戸時代の遊女独特の優雅な古典的美しさを一筆一画に込めて描写して、当時最も流行していた服装と装飾具の模様を一つ一つ記録しており、十分以上に貴重です。その描いた浮世美人図のうち、あるものは三々五々、屋内で衣装を見繕い、鏡を見て身仕度をしています。あるものは庭で洗濯、談笑したり騒いだり。流行の服装で盛大に着飾り、振り返って見て周りを見回している姿もあり、独り明かりの下で手紙を読み、夫君への恋しさを募らせるものも……彼はきめ細かい技法で江戸の女性たちの生活と感情の細部を描写して、時に活発で腕白な彼女らを描き、時に孤独と感傷を描いており、確実に生き生きとした世界があります。中でも「吉原雀」が最も妖艶だと私は思います。画中では吉原の花魁がしなやかな紗を頭に乗せ、ピンクと紫の入り交じる桜と飛ぶ鳥があしらわれた絢爛な着物を着て、金箔が象眼され、いろいろな菊の花で飾られた扇子を手に持って、両手を胸先で交差させて軽やかに舞い、なまめかしくはにかんだ表情で、顔かたちは十分あでやかです。まさに振り返ってほほえむ可愛さで後宮の女性陣が顔色をなくすという形容のとおりです。 

人を夢中にさせる浮世絵師には歌川広重もいます。「葉ごしの月」には絹のような滝が描かれ、崖のそばでは枯木がひっそりとして、葉が枯れて落ちています。白く光る円月が小枝の背後に隠れており、山頂に登り崖から遠くを眺めると、連綿と続く群山の起伏ばかりが見えるのが想像されます。「暁月暫く飛ぶ千樹の裏 秋河は隔たりて数峰の西に在り」〔韓翃の詩「宿石邑山中」〕の境地が味わえるかのようです。このように多く風格がそれぞれ異なる浮世絵は、江戸時代の浮世にぎわいを復元するのみならず、江戸時代の経済、社会、政治が変わる背景のもと、文化が特権階級だけの享受する精神製品から庶民の大衆の消費財に転じた特殊な歴史の時間を照明するものでもあります。 

本を読んでいると心が動かされやすくなり、時には絵の煌びやかで美しい色使い、あるいは画中の人物の寂しく悲しい表情、はたまた画家の創作時に行き詰まっていた経歴……実際には、浮世絵を鑑賞するとき味わっているのは時間の妙味で、その織りなす物語、感情、時代の輝き、どん底の人物のやるせなさです。じっくり咀嚼しないと、そこに含まれる豊富な趣を感じ取ることはできません。しかし、いかにあでやかな色にも暗然とする時間があります。今のような大量の情報が急激に視野に入ってくる時代には、これほど貴重な芸術でも人々の記憶の中で薄まりやすく、最後には歴史の廃墟の中へ埋蔵されてしまいます。人々は慌ただしく行き交っており、ゆっくりと鑑賞に赴き、推測して、芸術のすばらしさを感じ取るのは難しいようです。実のところ、芸術を保護する最も良い方法は、博物館の中で何層ものガラスで覆うことではなく、記憶し伝承することです。芸術を正しく扱い、芸術を尊重することは、人類が自身の存在を証明する最もすばらしい方法です。 

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