編んだ舟で海は渡れる

北京化工大学 韋俐彬 

中国にはなんと一人で37年かけて編纂したプシュート語の辞書があるという話を聞いたことがあります。1975年の立案から2012年の完成まで、この辞書の誕生の過程は編者である車洪才の半生を貫いています。車洪才は次から次へと湧き起こる時代の波の中で物事の成り行きに従わず、すべての私心や雑念を捨てて、辞書を編纂するという「偏った」道をしっかりと選んだのです。辞書を編纂することは、国家からの任務というだけでなく、後世のためにいくつかの長く保存できる精神的な財産を創造することでもあると彼は考えていたからでした。車氏は「自信がある。編んだものの重さを私は知っている。辞書は後世の師であり、少なくとも23世代の人に影響する。今は物質的なものがとても露骨に扱われており、何をするにも駆け引きをしなければならない。私からすると、国のために仕事をするのは無駄ではない」と語っています。 

彼の話で、かつて読んだ日本の文学作品『舟を編む』を連想しました。この本も、辞書を編纂する日常業務を巡って展開されています。同書では辞書『大渡海』が15年がかりで生まれた物語が述べられており、その間の長い歳月はなんとも寂しくまたロマンチックで、平凡でまた甘美なものでした。 

『舟を編む』の物語が起きたのは世紀の変わり目です。玄武書房はかつて、現代日本国民向けの中型国語辞典『大渡海』の出版を計画していました。日本社会が飛ぶように速く発展するにつれ、従来の紙媒体は発展の勢いが激しい電子媒体に敗れ、急速に没落。出版社が字典、辞書を重視する程度も大いに弱まりました。そうした傾向のもと、この辞書の前途は暗くなっていきますが、幸いこの任務を受けた人々は皆が辞書のために生まれた「舟を編む者」でした。チームには、何事につけ少しもいい加減にしない老学者の松本先生、病気の妻を世話するため退職したい編集者の荒木、そして落ち着きなくせっかちな若者の西岡、パートの佐々木さんがいます。彼らは辞典を編纂する前段階の準備を進める一方で、この偉大な事業のため新たな「舟を編む者」を募集しました。いろいろと苦労して探した末、ついに辞典を編纂するために生まれてきたような奇才、馬締光也を見つけます。 

文字を舟として、苦しみながら言葉の海を渡るのは、苦行とは言え楽しみもあります。しかし世の中の苦難が次々と重なって、波はあまりにも高く、この小舟は飲み込まれそうでした。辞書編集部の綿々は出版社の人員削減、経費削減に直面しても、中途でやめることを選ばず、昼夜兼行で編んだ小舟の上で、信念の一致する同士がひしと抱き合い、この巨大な波と取っ組み合って、きっと果てしない海を越えるのだと決意します。 

口下手ながら情熱のある馬締は編集部を率いるという重責を引き継ぎ、現実離れしがちに見えていた西岡が肝心なタイミングで落ち着いて頼もしくなったことに一同が驚き感動し、ファッション編集を志望していた若い女の子の岸辺も思いがけず辞典を編纂する大家族に参加しました。協力すれば良い結果が出て、みんなの心が一つになり、一同は『大渡海』の誕生のため昼夜奮闘しました。日々は慌ただしくまた平板で、時間はまるで書物のページの間に溶け込むようで、辞書編集部の歳月はあまりに軽く遅くなっていきます。巨大な波が静まって揺らめく青い波になり、言葉で編んだ小舟はついにみんなを乗せて対岸に到着しました。 

この本を読んでも真意が分かるのは中国人と日本人だけだと思います。言葉や文字にこれほど執着し真剣な民族だからこそ、作中の人物の気持ちが分かるのです。昔は多くの人の名前が字典、辞書から取られ、私の名前もそうでした。私が生まれてから、母が数夜続けて字典をめくり、簡明で精確な解釈を参照して、願いを込めて選んだものです。私は小さいころ、周りの人の名前の意味をいろいろな辞書で調べるのに熱中していたことがあります。字典や辞書を開くと、一行一行の整然と印刷された小さい角張った文字を通して、一人の人の最初の気質と持って生まれた祝福を垣間見ることができるように感じます。このような喜んで小躍りする感覚は、言葉で言い表せないもので、今のどんな電子機器にも備わっていない能力です。 

我が家には何冊も辞書が積んであり、改訂版が出るたびに家族が買ってきてコレクションにしています。常用こそしないものの、触れることが出来る文字への思いでしょう。今は読書時間の大部分を電子機器が占めていますが、たまに思い立ってインクの香りがする字典をめくると時間を遡る慰めが得られ、旧友に抱かれる温もりを感じられます。 

言語の文字は国や民族のアイデンティティーの肝であり象徴です。そして字典や辞書は言語の文字の意味の扉を開く鍵です。なので『舟を編む』を読んだときには何度も手を止めて感慨にふけりました。こうした名利に無関心な「舟を編む者」たちのおかげで、私たちの魂は小舟に乗って、文字の背後にある深い意味と内包を自由に見て、遥かな時空の中から出航し、光り輝く未来へとこぎ出して、延々と続いて絶えない文字の海の中で針路をそれないで済むのです。 

日本的の伝統文化にある「一期一会」は、一生に一度の縁を示しています。辞書編集部のみんなにとって、『大渡海』の編纂は悔いのない選択でした。人の生命は有限ですが、価値の無限な精神的な財産を創造して後世に残すことはできます。たとえ人だかりの中の一般人でも、自分の生命の中の「舟を編む者」になることを選ぶことはできます。落ち着きがない心に別れを告げ、未練を持たず、恨みや怒りを抱えず、真剣に丁寧に自分の人生の字典を編むのです。生命の海の中で危険を恐れず帆を上げて勇敢に前進し、しっかりした目標があれば暴風雨で方向を見失うことも恐れるに足りません。 

先は遥か遠い、空の涯、海の角がどこか分からないと言わないこと。ほら、もう小舟は山並みを過ぎましたよ。 

  

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