日本民族の美学における生命の意識と悲劇精神

  

 西南石油大学 張鴻宇 

生命の本質に対する思考は人類文明の中で昔から変わらないテーマで、日本文化も例外ではありません。かつて上杉謙信が「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」と感嘆しています。悲劇は人生の抽象と投影であり、世の中の苦難と泣き叫びを一定の距離からじっくり見なおし、生命の意味を訪ねるための橋にすることができます。日本の能は宗教的な色合いを持つ仮面の悲劇です。能は神に見せるものだと考えられているため、仮面を付けなければならず、見る者は現実を忘れて芸術の入神の境地に入ることができ、最後には人と神の間を近づける効果に達します。また能には特有の「能面は能の命」「能面の心は能の心」という言い方があります。能に限らず、日本の民族文化全体の中で悲劇的な審美がとても重要な地位を占めていますが、このことは日本の文化における生命と死亡の思考の重視と不可分です。 

美学上は一般に、人は功利のない態度で客観的な事物を鑑賞してこそ審美の体験が得られると考えられています。このような観念を審美の無功利性[]と呼んでいます。悲劇は客観的な事物のためにある種の無功利の配慮の視角を提供するため、厳かなロマンを感じられるのです。NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』のタイトルはこのような美学思想の外化です。「花燃ゆ」とは花の開くさまを自らの燃焼とみなし、死へと転換する過程(つまりハイデガーの言う「死に向かって生きる」)で、逆に死に対する芸術性の表現でもあります。全体的に、日本民族の美学における悲劇精神はおおよそ滅びに対する崇拝、人生の意味に対する詰問と死に対する配慮の審美に分けられます。それらは日本の文学作品、絵画、音楽、建築の風格すべてにおいて十分に体現されています。 

滅びに対する崇拝は古代ギリシャ悲劇に始まり、日本の文学作品の中でさらに発展しました。その代表は三島由紀夫の『金閣寺』です[ ]。溝口は焼け落ちる金閣寺を通して醜い自分を永久不変の美に近づけ、そこに伴っていたのは苦痛の快感[ ]と芸術的な満足です。この種の快感はカントの言う崇高さに似て、物自体の存在のように、賛嘆できますが捕らえることはできません。三島はこの上なく美しい天体を作って、容赦なく大地に墜落させ大破させていると言えます。このように、力量感、宿命感、運命の不可逆性がよくその作品で体現しているテーマです。指摘しなければならないのは、これらの古いギリシャ悲劇にもよくある要素を、三島がさらに強調し、その代価に死をもって殉じたことです。 

三島を代表とする壊滅的な悲劇の審美が、壊滅の中から表象の背後に隠れた実在を追い、なお人生の意義を肯定するものとするなら、芥川龍之介を代表とする悲劇の審美は、恐らく人生の意味に対する徹底的な詰問です。懐疑主義と実存主義がこのような審美で主体の地位を占めていました。『蜘蛛の糸』[ ]の救いようのない衆生に対する記述と言い、『河童』で架空の河童国を利用して表現した宗教への絶望と言い、その作品の中で神さながら氷のように冷たい視角で世の中の百態を述べており、同情や哀れみを見出すことさえできません。老子の「天地は仁ならず、万物を持って芻狗と為す」に似ています。かつてニーチェはエウリピデスが悲劇の中で採用した「機械仕掛けの神」[]という手段を批判しました。主人公が苦境に直面して解決しがたいとき、奇跡を使ってシナリオを逆転させ、それによって話を引き続き前に進めることです。しかし芥川は古代ギリシャの悲劇の伝統を超越し、道徳と人間性に対して十分な分析を行いました。ここにおいて彼はドストエフスキーに近いと言えます。同時に、芥川は芸術至上の信念によって悪の美も表現しています。『地獄変』の中で絵師の良秀が悪と滅びの中から美を見つけ出し、最後には自殺してしまうように。これも芥川の「芸術のための芸術」の信念を体現しています(『芸術その他』を参照)。 

日本の美学の中には寂寥と幻滅で表される悲劇性もあります。日本の古典文学でこの種の審美を代表するのは『源氏物語』と『枕草子』です。本居宣長はこうした無常と空虚の審美を「もののあはれ」と称しました[ ]。このような自然や世事の移り変わり、栄枯盛衰は浮世絵でも多く体現されています(「富岳三十六景」を参照)。川端康成の作品『雪国』[ ]ももののあはれの審美を深く体現しています。「生きていることも徒労であるという」。小説の終わりで葉子が上階から落ちる場面を「目を上げた途端、さあと音を立てて天の川が島村のなかへ流れ落ちるようであった」と描写しており、このとき作者はすでに死を幸せの終点と見なしています。川端は西洋哲学の意味におけるニヒリストではありません。彼は禅宗の影響を深く受け、虚無を真性の一種と見なしています。「人生無常、万事皆空、滅我為無、無中生有」[ ]壊滅的な抗争がなく、彷徨うような懐疑もなくて、死の落ち着きと極致の耽美主義傾向だけがあります。 

私は、日本の美学には深い「内向型」の特性があるとずっと思っています。この内向性は自らの根本識、生命の本質、人類の本性の思考に表れており、さまざまな悲劇の審美の態度と生命の観念にそれぞれ体現されています。日本庭園の文化には芥に須弥を納る〔大小や高低などの相対比較をしない〕の観念があり、日本の文学と芸術も人の心の深くへと絶えず探っています。このような思考は同時に人の心の最も薄弱で最も強大な部分を捕え、悲劇の境地に置いていっそう拡大し、最終的に究極の問いに対する思考と詰問をまっすぐに目指すこともままあります。このときの苦悶の叫びと支離滅裂な運命が厳粛なイメージに変身したものが、ニーチェの言う「外形からの解脱」です。 

日本の美学における生命の意識と悲劇精神は、形跡を残さない「ミューズの輝き」ではありません。捉えようのないない集団的潜在意識ではなく、現実世界を超越した「超自我」でもなく、日本民族の心理構造が集中的に体現されたものです。このような心理の構造は現実的な芸術に反応を生じ、新しい芸術作品はまたそれに対しさらなる昇華をみせます。このような精神は日本の文学、絵画、音楽、映画さらには漫画やゲームにまでしみ込んでいます。それは内への探求であり、外への放出でもあります。古典的な美学の命題であり、近代的な意識の構築でもあります。静態の深い思慮であり、動態の芸術の感情でもあります。個人の生命を追う営みであり、集団的な民族心理でもあります。このような思想は、人々が文芸の殿堂の中で人類の追求する永久不変の問題を解決することに尽力することで死を超越し、究極の確かな目的を探し当てることを体現しています。 

 
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