過去と向き合う勇気のない人には、未来を擁する資格もなし

南大学 李宜萱 

「だれでも確信を十分に深めれば、これ以上ぐずぐずしているのは恥ずかしいという心境に達するはずである」――カズオ・イシグロが『浮世の画家』の中で主人公の小野益次に言わせているこの言葉は、日本の中国侵略戦争と戦争下での各種の複雑な人間性の再考がよくまとまっていると思います。 

移住者の身分は確かにイシグロに独特な創作の素材を提供しましたが、活動の範囲を限ってもいました。「日本性」がどうしても抜け出せない彼のレッテルとなり、ノーベル文学賞を獲得した後は、どうしても川端康成のような日本の本土の作家と内外比較をされるようになりました。川端康成の文はいつも懐古、もののあはれ、わびさびで築き上げた「美」と「純潔」に対する耽溺が表現され、言葉の風格はねっとりしており、叙述する基調はか細く悲しげな哀悼です。西洋に受け入れられたのがより早かったため、か弱く、敏感で、きめ細かい美学が大多数の日本の文学の烙印にもなりました。川端康成が現れる前に、カズオ・イシグロの作品の戦争、人間性、古い時代の描写を捉えた批評家はやはりいました。しかし「懐古」と「追憶」が彼の作品の中で最も鮮明な標識であるとされ、彼の感情の下の「深淵」に対する凝視を見落とされていました。 

時代背景も人生経験も異なり、日本に対して持つ感情のつながりさえ違うカズオ・イシグロと川端康成は、そもそもの趣が大いに異なります。イシグロの作品には日本の要素が関わってはいるものの、彼の昔に対する追憶は、作品雰囲気の設定と、気づきにくい逆説的な風刺に過ぎません。『浮世の画家』というテーマと内容いずれも日本の要素に満ちた作品の中から、その日本社会に対する観察はとっくに川端康成の綴った古い世界に対する未練ではなく、社会の人間性の普遍性についてまで考えを進めたもので、決してとある国のとあるエスニックグループにとらわれてはいないことが分かります。 

『浮世の画家』の中で、中国侵略戦争当時に軍国主義を吹聴したことで功績を挙げ名を成した小野は、日本が敗戦し投降した後、娘を嫁がせようとしてさまざまな苦境に遭遇します。かつて彼を支持していた人々も去っていき、彼が侵略戦争の過ちを認めない態度のため縁談先にも辞退されてしまいます。教え子、親友の態度の変化、日常生活の転換、さらには通り一本の取り壊し立ち退きにより、小野は時代の移り変わりを夢のように感じます。娘の縁談のために彼は旧友を訪問し、自分に悪感情を持っていた学生を見舞って、ついには口頭で自発的に自分の誤りを認め、むしろ尊厳を放棄してもよいと率直な誠意を示そうとして、やっと面目が立つ姻戚関係を得られました。 

小野益次が戦後に経験したすべては、戦後の日本と日本国民が生存した「浮世」の縮図です。少年時代は絵画の素質にうぬぼれ、師の家で自ら目撃した不公平に冷静さを保ち、小野は気が弱く地位や財産に弱い自分をこざかしく保身をはかることに帰結させますが、同世代を権勢者に取り入る小人と思っていました。日本の対外侵略戦争が発生したとき、彼は絵筆で軍国主義と国粋主義を吹聴して誉れと地位を得ましたが、戦後に自分の誤りを認めることを拒絶します。娘の婚姻のために口頭で妥協しつつも、内心ではこれまで自分の選択が卑劣だと思わず、むしろ信念だとして、何度も回想するのです。誤って「尊厳」と判断していた虚栄、誤りを認め、責任を負うことの回避、自己の苦痛を絶えず拡大解釈し、他者の不幸は見て見ぬふり。カズオ・イシグロならではの選択性的な叙述により、小野の記憶の中でうぬぼれの部分は無限に拡大され、自分の誤った選択に対しては言葉が簡単すぎ、楽な方に流れる本質は、日本が中国侵略戦争後に謝罪を承知せず、逃れることで自らを慰めるさまざまな行為の再考と風刺です。 

「浮世絵」は庶民から始まった花柳界の芸術で、初期は常に「ポルノ」と関わっていました。19世紀中葉でやっと世界範囲の影響が生じて、「日本性」の代表になったものです。小野益次の身分を「浮世の画家」に設定したことで、叙述の矛盾を広範に認知されているかステレオタイプの印象に合う「日本」に絞れるだけでなく、「浮世絵」のようなボトムアップの芸術形式を借りて、小説中の複雑な人間性の普遍性の隠喩とすることもできます。当然、カズオ・イシグロの再考は決して侵略国の国民と被侵略国国民いずれにも有害で無益な戦争に限られたものではありません。東方の伝統文化に対する西洋現代文明の蚕食や併呑をも含んでいます。小野と娘婿の間の隔たりは取り除くことができず、小さい孫と交流するとき世代間のギャップを感じて、なじみの居酒屋も間もなく取り壊されることになり、彼の生活と思想は、自分の居住する旧式の大邸宅のように、戦争の破壊を経験して、慎重に修繕しなければ保護できないのに、やはり日進月歩で新しくなる時代と相容れず、未来へ駆ける若い人を引き止められないのです。 

「浮ついた国、ためらいの世」――小野と同様に「ためらい橋」に立った人々がうろうろ彷徨っているのは、昔の栄光への耽溺でしょうか、それとも未来の社会に対する困惑でしょうか。一念発起して虚栄の執念を捨て、平然と誤りを認められた人もいたでしょうか。 

私が分かるのは、過去と向き合う勇気がない人は、未来を擁する資格もないということだけです。 

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