現代社会の中の意識、個人的無意識と集合的無意識

 中国科学技術大学 郭祝安 

1Q84』は現代の日本の作家、村上春樹の長編小説です。テキストは主役の「青豆」と「天吾」の視角で述べられ、邪教団体の「さきがけ」をめぐって展開します。物語は天吾と青豆が「リトル・ピープル」の作りだした平行世界1Q84の中で再会する話を綴っています。二人は不幸な少年期を経て最後に出会い、他の登場人物はこの世界の犠牲になりました。 

この小説は村上春樹が7年かけて生み出した作品で、その背景は「地下鉄サリン事件」の生まれ変わりです。大部分の読者にとって、村上春樹の他の作品と比較して、『1Q84』は確かに難解です。第一部と第二部で糸口(反戦、反邪教)が見えたと思いきや、第三部は青豆と天吾の別れと愛で結ばれており、困惑したという読者が多くいます。 

多くの文学評論も『1Q84』に対して「悪」の討論で止まっており、わざと煙に巻く手法で反ユートピア社会を描写しているにすぎないと捉えています。しかも村上は本書で十分な批判を提供していません。翻訳家の林少華は、「反ユートピアの作品はよく体制の批判を目的としているが、『1Q84』が探究するのはもっと大本の「悪」で、しかしこうした大本を追及すると「人間性の悪」にとどまりがちだが、「体制の悪」を批判するときはある種の譲歩と逆行である」としています。[ ]]こうした判定にも道理はあります。例えば作中の邪教の教主は幼女に対する淫行の罪を犯しながら、それは「リトル・ピープル」に操られたせいであり、教主自身は悪人ではない、挙げ句「リトル・ピープル」との戦いにとても貢献してきたとさえ語っています。それにより邪教の教主は最後に従容として死に臨む英雄風の人物になっており、明らかに受け入れがたいものになっているのです。評論家の安藤礼二は、「システムの矛盾、システムの悪とその解消を描くはずの物語が、理想のシステムそのものとなってしまう。私はそこに大きな不満を覚えます。……不気味な悪の源泉であるりーダーをはじめとして皆、格好よすぎるわけです」と評しています。[ ]]さらに尖った指摘もあります。『1Q84』中での「さきがけ」の美化は、村上の前著『地上』や講演「壁と卵 - Of Walls and Eggs」とは大きな差があり、村上の自分に対する裏切で、邪教のような不合理な体制に対して共鳴と同情を生じているのかと疑わせるというのです。 

しかし私は、『1Q84』の重心は決して「善悪」の討論ではなく、意識、個人的無意識と集合的無意識がどのように相互に影響し合って、かつ現代生活に影響を及ぼすかについての討論にあると思っています。体制と集合的無意識の相互作用と、体制の中に身を置く人の受ける影響を指摘しているのです。この3つの概念はスイスの心理学者ユングが打ち出したもので、ユングは人格が意識と無意識に分かれ、無意識が個人的無意識と集合的無意識に分かれるとしています。前者ははっきりしない感覚と経験から構成され、意識した後に押さえ込まれた経験や印象を持てなかった経験であることが多く、常に「コンプレックス」の形式で人生の中に再現され、人の行為に対してまちまちな影響を与えます(マザー・コンプレックスなど)。後者は祖先の生命の残留を含んでおり、その内容はあらゆる人の心に見られます。普遍性があるため「集合的無意識」と呼ばれ、常に「原型」から構成されます。伝承できる同類の経験から構成される、ある集団の心理上の沈殿物の一種です。集合的無意識が伝承できるのは、相応の社会構造と地理環境を支柱として、集団の中の個人が似た意志を生じるよう導いているためです。村上はこの3つの概念を解いて再構成し、テキストの中でそれぞれそのイメージを与えて、それらの現代生活における影響を明示しています。紙面の制約により、以下では『空気さなぎ』という要素だけ選び取って私の理解を語ります。 

作中の「ふかえり」の小説『空気さなぎ』は彼女の「さきがけ」と「リトル・ピープル」に対する記述です。まさに『1984』にあるウィンストンの日記のように、『空気さなぎ』も体制に対する抵抗を代表しており、自己の意識が集合的無意識をじっくり見て再考することを意味しています。『空気さなぎ』で描かれている、ふかえりの「さきがけ」での生活の中で現れるめくらのヤギ」がとても重要なイメージです。「羊」のイメージは、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』などの作品に出てくる羊男のように、村上作品の中で常に「操られる」「精神的独立性がない」の代表として現れるものです。盲目のヤギは「さきがけ」の中で衰微する自由意志を象徴しています。ふかえりがそのヤギの世話をしていたとき、ヤギはすでに年老いていました。これは「さきがけ」がもう若くないこと、深田保(「さきがけ」の創始者)の理想により存在する組織ではないことと対応しています。ヤギが死んだことは「さきがけ」がわずかに残す理想と意志が徹底的に死んでしまうことと対応しており、組織内の人は「リトル・ピープル」の声(集合的無意識が人を操る象徴)を「傾聴」し、進んで自らの娘を差し出す人までいました。理屈から言えば、このようにでたらめな組織と集合的無意識は厳しく批判されるべきですが、文中では「リトル・ピープルがどういうものか、善か悪か、それは分からない」とあり、これこそまさに『1Q84』たくさんの論争と批判を誘発する原因です。村上はでたらめな体制と無感覚な集合的無意識に十分な批判をせず、中立的な概念だと見なしています。私が思っている、村上が表現しようとしていることは、人類の意識が本来は無意識に基づくもので、個人的無意識と集合的無意識のいずれもそのものは中立的存在だということ。人類が集団体制を離れて生存することはあり得ず、体制には決まって合理性とでたらめさがあるが、その点も避けがたいこと。我々のすべきことは、はっきりした自己の意識を保って折に触れ体制をよく観察し、自己を再考することで、個人的無意識と集合的無意識に操られないようにすること。そうしてこそ体制を適時是正して「バランスそのものが善」という状態に達することができ、そうした是正能力がいったん失われると、体制は悪の深淵へと向かい、ナチスのような悪魔を生んでしまうのではということです。 

  1Q84の世界はフィクションの反ユートピア社会であり、巨大な隠喩と呼ぶべきものです。彼は現実世界の発展に対していかなる推測もせず、ただ世界を切り開き、折り畳み、拡大縮小してから我々の前に示しているのです。完璧な体制というものはなくても、バランスを保って適時是正していくのが完成された「善」だと人々に教えると共に、頭をはっきり保ち、混乱している現代社会と繁雑な情報の流れにぶつかって判断力を失わないよう、気づかぬうち集団に従うだけの冷たい人になって、悪の深淵へと向かってしまわないようにと、人類に警告しているのです。 

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