漆黒の極彩色

 

 蘇州大学 蔡芸萌  

初めて日本文学に触れたのがいつだったか、すでによく覚えていません。この分野で最初に誰の本を読んだのか、その本がどういった名前だったかを思い出そうと努めてみても、全く思い浮かびません。知らず知らずのうち生活に浸透しており、我に返るとすでにたくさん作品を見てきました。 

1314歳のころ、漠然とした不安を抱えていて、感情の墨汁たっぷりの日本文学と激しい化学反応を生じました。「中二時代」の言葉にならない憂うつが日本文学に特有な非常に繊細な感触に含まれていたのです。こうした感動が大脳につながって、次第にものごとの色彩がどんなリズムを持っているか感じられるようになり、光と闇のつながりを鑑賞しはじめました。時々、ある種のふさぎ込んだ感覚に包まれます。私を包み込むのは文字と思考の潮流。怒濤の下深く埋もれた、えも言われぬ激しいぶつかり合いを感じられます。それはずっとその民族の心の中に存在している、なのに言葉で表しにくい気持ち。私のこうした考えを日本の先生に話していたとき、先生は「そうしたものはふだんからもっとあっても、率直に言葉にはできません。集めたものが多すぎるから、音声のない文字の中でこそ激しく爆発できるのでしょう」とおっしゃいました。 

日本がどのような国なのか、大和民族がどのような民族なのか語る場合、私たちが口に出せる評価は科学的な権威ある評価や学術論文とそう違いません。礼儀作法を重視し、高い集団意識があり、天皇に忠実で、心の中には生物の本能に背いて命を犠牲にする気持ちさえ湧いているといったものです。しかし日本と言えば何かと聞かれたら、歴史的視線も政治的論理もしばらく脳裏から消えてしまいます。その問題を考えた瞬間、無数の積み重なったイメージが脳裏に浮かんで、どんどん鮮明になってくるからです。 

紫式部の言葉で光源氏の庭に月光を映して雪が積もり、松の枝からこぼれ落ちる雪の透明な輝きからぽろぽろと小さい音。斑竹から生まれたかぐや姫が迎えに連れられて月へ上っていくとき、ぬばたまの黒髪が嘆きの余り乗る籠を塞ぎ、月から吹いてくる冷たい風に少しだけ浮かび、古い日本画に描かれたようなはっきりときめ細かな像を見せます。目の前にはまた、谷崎潤一郎の描く女性が黙ったまままばゆく見えます。地に届く長髪、剃った眉、朱を塗って、歯を黒く染め、身は幾重にも重なり合う長い単衣の中に隠れ、身体の線は華美な和服にすっかり飲み込まれ、夜の景色に溶け込んで空を取り込み、この世にこの上ない闇夜があふれ始め...千本桜が濃紺の川面を撫で、夜景のように濃い色の川面にやさしいピンクが照り映えて、光と闇がちょうどよく融け合い... 

抑えた筆致とコントラストの中に文人の本領が見えます。彼らの文章の抑えた風格、極端なコントラストといった特性は、美に対する表現に現れているだけではありません。怪奇物語も同様に、奥深く奇異な話の中に鮮やかな筆致が見られます。『地獄変』の最後で、絵師は生命をすべて賭けて、車ともども焼かれていく娘の姿を事細かに描写して、地獄変の屏風の完璧な一葉を完成させています。たとえ自ら心血を注いで育て上げた娘でも、自分の心がもう裂かれていても...温情で亡者が人の世に帰って身内と会える盂蘭盆会を綴る作家もいますが、地獄の血の池で苦しい目に遭う魂の罪業と叫びを描く文人もいます。大いにこれらの魂の生前の罪悪を語り、八大地獄を創造しています。魂たちは無数の苦難の中で死んではまた生まれ、とっくに時間が流れ去るという概念を失っています。そうして血の池や刀の海、八熱八寒の中で自分の犯した罪を悲しみ泣き叫んでいるのです。 

極端な美、極端な恐れ、ほぼ何もかもが極端です。美の中に放たれる極致の色彩、恐れの中に埋もれた限りなく深い暗黒が、深い闇の中で極彩色に照り映えます。感情を抑えると現実の中ではどこにも放すことができないので、文字、詩歌と積み重なるイメージに転じて、限りない歌の中で解放を求めるのです。事物が些細であればあるほど、そこに含められる思いはより深く、感情はますます濃厚になります。小さい、平凡、ぱっとしないものゆえに、日本の文人が最も深い色に染まっていったのです。小さい容器に悲しみと恨みをまとったあれこれと風月の果たしなさを詰め込むと、爆発するときあまりに猛烈ではらはらする美しさのため、深く心に烙印が押されるのです。使い慣れている抑えた表現と勢いよく吹き出す感情が作品により大きな張力を与え、クモの巣のように繊細な情緒の感銘も次第に読者の心の中へ巻きついて、抑えた筆致で痛みを示す魅力に心服させます。しかし独りでいると、微妙な追憶を触発する何かの瞬間に、知らず知らず涙が激しく流れ出ていることに気づきます。心の最も深くの柔らかさが広大な場面で揺り動かされることはありません。些細なぱっとしないところで、きわめて深く誠実な感情が埋もれているのによく心を打たれます。 

東京オリンピックの開幕式のダンスもそうした作品だったかもしれません。西洋のダンスが熱烈にあるいは優雅に美を表現すると言うならば、東洋のダンスは自らの弔いと死により美を歌い上げるものです。ダンスは懸命に立ち止まる死体で、ダンサーは原始の祭祀の供物です。形態の奇異な白衣の男子は死を象徴し、また生命の原初の形態を代表しています。他のダンサーとの共存はコロナでの死亡者への哀悼。受け入れても、受け入れなくても、死はずっとそこにあります。死のもたらす悲痛を受け入れ、生きている人だけが過去とうまく別れられます。このような表現は難解すぎて、多くの誤解を招いたかもしれません。しかし狂乱、奇怪の後に、死者への哀惜と敬意を持っている、と私は今も思っています。 

たとえ大衆の受け入れにくい形式だとしても、なお舞台に上がったのです。状況をわきまえていないと言えるでしょうが、これは漆黒の中の極彩色です。少数派の言葉での表現は広範に受け入れられないかもしれません。開会の緊迫した日程で細部の深掘りが許されなかったのかもしれません。それでも自分のやり方で表現を行うのです。 

暗い森で気が狂ったと理解されても、風変わりで繊細だと思われても。極度に濃い黒の中には、純粋な色が見えるものです。 

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