空気を読みながら、自分らしく生きていく

倪笑依  北京外国語大学

 

 「張り詰めた空気。気まずい空気。おいしい空気。暖かい空気。我々の暮らしや幸せは思った以上にその場の空気に左右されている。」確かに、仕事の上などで大切な能力として「空気が読める」ことがある。しかし、空気は単に吸って吐くものだけではなく、心で感じて読むものでもあると思う。

 空気を読みすぎるとかえって疲れ果ててしまう。ドラマ『凪のお暇』の主人公の大島凪さんはそんなタイプの人だ。職場の空気に敏感にアンテナを張っている大島さんは周囲の顔色を伺ってびくびくしながら毎日を送っている。天然パーマなのに、周りを不快にさせないために、日々日々大変な手間をかけてストレートにしようとしている。そのようにおどおどしていてストレスが溜まっている一方だった。ようやく限界が来て、過呼吸で入院した。だが、同僚も彼氏も、誰からも連絡をしてくれなかった。凹んで傷ついた彼女は思い切ってこれまで築いてきた人間関係を全部捨てて人生をリセットしてしまおうと思っていた。そこで都心を離れて自分探しの旅に出かけた。

 実は、中国でも日本でも、大島さんのような「空気を読みすぎる」タイプの人がいっぱいいる。「空気を読む」はまさに中国語で「察言」という言葉にあたっている。もともと優れた能力として認められていたのに、なぜ今では人を困らせることと考えられるようになったのか。それはやはり空気を読み「過ぎる」ということのせいだろうかと思う。相手に好かれているか嫌われているかと気になって先方に合わせてばかりいると、逆に自分を見失ってしまう。

 さらに、全ての人に喜んでもらえるのは無理なのではないかと思う。人間は誰にでも欠点があるものなのだ。むしろひたすら人に合わせるのではなく、ありのままの自分でいればいい。この世の中は多種多様な人々がいるからこそ、成り立っているからだ。

 そうは言っても、人間は孤島ではなく、誰かとつながっているのだ。マルクスによれば人間の持つ社会的諸関係は人間としての特徴の一つである。したがって、人と接するのは避けたくても避けられないものだともいえる。大島さんもいずれ再び職場に戻るに違いない。しかし、戻っても、彼女はもう一度自分を見失うのではない。確かに職場を離れて自分探しの旅は彼女にとって一周回って原点に戻ったような経験だ。でも、輪のように同じところに戻ったというよりもむしろ螺旋階段のように迷いながら上に登っているのである。実は、我々には人を喜ばせる義務がない。話し相手に丁重に接しながら、素直に表したいことを言うといいのではないかと思う。その場の空気は相手と話し合いつつ、ともに作っていくものだからである。

 したがって、必ずしも空気を読むことと自分らしさを保つこととは対立するわけではない。空気というのは吸って吐くものといい、感じて読むものといい、大切なのは、自分にあったやり方でバランスを取ることだ。

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