「死」から「生」を思う

 

趙姣姣  海南師範大学

 

『湯を沸かすほどの熱い愛』という映画を見た時、祖父が亡くなったときであった。祖父にかわいがられていた私にとっては、祖父がもういないという事実をなかなか受け入れられなかった。祖父を思い出すと涙が止まらなくなってしまう日々であった。

『湯を沸かすほどの熱い愛』では、癌の末期になって余命わずかと告げられた主人公幸野双葉が積極的死に直面し、笑顔で残りの人生を過ごすことにした。その前向きな生き方が太陽のように他人を暖かく照らしてくれている。双葉はまず家出した弱気な夫を連れ戻し、家庭の責任を取るように教え、休んでいた銭湯を再開させた。そして、学校でいじめに会った娘の安澄が独り立ちすることができるように、困難な状況でも決して逃げるなと励ました。夫が他人の間でできた子ども鮎子をやさしく受け入れた。また旅行中に出会った青年拓海を助け、見失っていた生活の希望を新たに持たせた。最後に双葉は自身の要望で湯の窯で焼かれ、彼女が沸かした湯に家族たちが暖かく浸かっていた。映画の中で繰り広げられた一つ一つのシーンから、双葉のやさしい愛情と強い意志が描かれている。死を積極的に見る双葉の生活態度に感動し、私もあまりに悲しまずに前向きに生活することができた。

「生を夏の花のように光り輝かせて、死を秋葉のように静かに迎える」とインドのラビンドラナート・タゴールが言っている。ダコールのように死を恐れず、いつもと同じ平らかな心で面する考え方の方が素敵であろう。しかし、死に対する双葉の考え方がもっと情熱的である。なぜなら彼女が残された時間を精一杯生きようして、死を迎えた後でも家族を暖かく見守ろうとするからである。

『菊と刀』という本の中に、菊のような優雅と刀のような気迫を兼ね備えている日本人の気質が書かれている。おそらくこのような矛盾するところがあるから、死に対する日本人の独特の考え方ができたのではないだろうか。日本では、死が訪れた瞬間が、美しく散り舞う桜にたとえられ、それが美の究極、純潔、超俗を意味し、日本人に望まれた理想の状態である。このような、死を美しい存在として受け入れる楽観的な考え方に私は感銘を受けた。

  2020年の年明けから世界的に感染拡大を続けてきた新型コロナウイルスの影響で、おびただしい数の死者が出た。悲しいニュースを見ている中、生きることと死ぬことに対しもっと分かったような気がする。命ははかない。明日はどうなるか誰もが答えられない。できることはたった一つだけ、それは生きる態度を選択することである。今を大事にし、積極的で楽観的な態度でたくましく生きること。それが日本的な考え方であり、命を大切にしたい人々の考え方でもある。  
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