「坂の途中の家」から垣間見える日本の子育て

 

王暁霏 曲阜師範大学

 

先日、僕は「坂の途中の家」というドラマを見て、複雑な気持ちになってきた。言いたいことはたくさんあるのだが、なかなか簡単には言い表せない。

専業主婦として、子育てに専念している里沙子が、小悪魔のような娘のことで悩んでは、やりきれない毎日を送っている。子育ての疲れと周りからの批判が、日々里沙子に自信を失わせた。そんなとき、補充裁判員に選ばれた。裁判があれば、必ず出席することになっている。断れない国民の義務だから、里沙子は裁判があると、娘を姑のところに送り届けて、面倒を見てもらうしかない。それから、法廷に出席する。

事件は、里沙子に年齢の近い女性、安藤水穂が「わざと」自分の子どもを溺死させたとされていることだ。被告人の夫の証言を聞いて、大部分の裁判員が、この夫は夫としての役割をよく果たした、いい旦那さんだと思っているが、里沙子には何か言えない疑惑がある。その後、夫妻双方の両親の証言が終わり、里沙子にはそれがまるで自分の人生のように見えた。まさに、裁判を受けているのは自分だと思ったのだ。

このドラマは、子育てに専念する一方で、裁判員も務める里沙子ような主婦が主人公で、なかなか周囲から理解されない内容なのだが、じつは彼女一人の問題ではない。

子育てするだけでしんどい。それに、旦那と姑に誤解されて、ひどいことを言われる。だんだん神経衰弱になって、精神がここまで追い詰められると、だれだって壊れてしまう。「女性は子どもが生まれたら、家に入るもの」と思っている人はたくさんいる。これを間違いとせず、「常識」と呼んでいる人も多いのではないだろうか。今も、数え切れない女性が、他人の作った「常識」に縛られながら、つらい思いで暮らしているに違いない。「坂の途中の家」というドラマは、主人公里沙子の物語を通して、現代社会で、子育てと仕事の両立からプレッシャーを感じ、悩んでいる女性の声を聞かせてくれた。 数多くの女性に共感を呼んでいる。男社会にとっても、無視できない警鐘だ。精神を苦しめる子育ては世界的な問題でもある。具体的にというと、仕事に遅れが生じて、一部を犠牲にしても、配偶者とまわりの人から見れば、依然として不合格なのだ。この状況が続くと、出産を拒む女性が増えるのではないか。このような文化は生殖を妨げる。

しかし、これは、ドラマが抱える問題の断片にすぎない。子どもを産めないことに悩んだ人もいれば、結婚しない人もいる。結婚しても、家庭の不和で浮気する人もいる。子どもがいる人生といない人生、お互い理解し合えるのなら、楽になるかもしれない。僕からすれば、子育てというものは、決して女性特有の仕事ではない。なぜ女性一人が十ヶ月も耐えぬいて、分娩して、また一人で子育てしなければならないのだろうか。女性も男性と同じように、働くべきだと世間では言っている一方、家事は女性の仕事だと公言して憚らない。この社会は、女性に厳しすぎるのではないか。結婚問題と子育て問題は、若者を含めて僕達みんなの生きがいの問題だから、よく考えなければならないと思う。もし、僕が結婚したら、必ず妻の意志を尊重する。「母親なんだから」みたいなことばは絶対に言わない。このドラマから学んだことの一つは、人間には限界があるということだ。互いに支えて、幸せに生きていくこそ、夫妻。必要なら、僕は一時的に専業主夫になってもかまわない。「あまり無理をしないで、ちょっと休んだら」がよく言えるような夫になりたい。

人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850