災難の時

薛佳眉 南京郵電大学

 

 2020年上半期、COVID19が全世界に広がっている。自由に出掛けられない時に、私は『津波の霊たち』という日本の津波についての本を選んで読んだ。なぜなら、このような困難な時に、中国人として私は日本人が不可避な天災にどのように対応したのを知りたかったからだ。

 この本を読んで、日本民衆が災害に対応する時の冷静さに感心した。最も印象に残ったのは、津波が発生した後、村人たちが手早く役割を決めた。一部の人は子供たちを探しに行き、一部の人は子供たちが帰ってきた後にすぐに食べられるようにおにぎりを作っていた。このような冷静さは、まず人々が頻発する自然災害に対応した経験があるからだ。一方、それも何百年間の自然との付き合いで生まれた民族性から生じたのかもしれない。具体的に言えば、それは何があっても自然に適応し、たくましく生きる精神力だろう。本当に感心している。

 民衆たちの対応能力の他、私も本に書かれている他の場面について考えた。先ず、被災地の至るところで「頑張れ」が書いてあった場面だ。それについて、筆者は、「家や家族を失った人たちをマラソン選手のように扱おうとするのは、本当に慰めになるのだろうか」と質問した。そして、災難後の最初の入学式で、校長は「失った友達のために、正常な学習生活を回復するように頑張って下さい」と言った。この言葉は災難で子どもを失った親たちを悲しませた。

 この二つの場面を読み、私は中国2008年の大地震を連想した。その時、被災地もよく「雄起」、「多難興邦」などの言葉を使っていた。それらは日本の「頑張れ」と同じで、「打倒されない」と「救護作業に取り組もう」の意味だ。言葉の意味は積極的だけど、それは被害の影響を受けない人間の立場からの発言だ。災難で家族を失った人たちにとって、確かに慰めにならず、非人道的とも言える。彼らは悲しみを放置するところがなく、ただ茫然としているのだ。

 文化背景が似ている中国や日本で災難があった時、そのような「頑張れ」をよく見かける。このようなスローガンは、支配階級が、主流社会が災難に対しどのような見方をするかを望んでいるのを表れていると思う。我が国は、常に「力を集中して大事をやる」ことを強調しているが、日本も集団主義の考え方を持っていて、大局をよく強調している。社会経済の面から見て、正常な生活を回復し、被災地を再建するのはもちろん大事で、個人の悲しみは小さい事になる。なぜなら、傷ついた人は少数で、大多数の人の生活は正常に続いているからだ。しかし、私の観点から見れば、このような行為は、人権問題が重視された現代社会で、いささか残酷すぎるように感じる。弱者である遺族たちの悲しみを重んじることも大事からだ。

  私だったら、家族を失った人々に「がんばれ、しっかり!」とは言いたくない。「悲しいことを吐き出しましょう。私たちはここでよく聞いていますから」とだけ言おうと思う。  
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