朱に交われば赤くなる

唐鈺潔 嶺南師範学院

 

古典文学を読み始めたころから、芥川龍之介の『羅生門』がよく勧められた。『羅生門』を最初に読んだのは中学校の時であったが、その時は著者が何を伝えようとしているのか理解できなかった。ただ首になった下人と、服を奪われた老婆がかわいそうという印象を受けただけだった。7年間近く経った現在、再び原作を読んでみると、今回はなぜ人生の哀れに似たものなのかを感じている。

『羅生門』は惨めな環境で道徳の境を越えた瞬間の人間のうしろ姿を切り取った物語だと思った。人間性の中に隠された悪を明らかにしたこの作品は、エゴイズムが常に趣旨として描かれている。強盗は自分たちの罪を認めず、常に言い訳を見つけ、その罪を隠そうとし、否定しようとしている。また、自分を慰めるために、すべてを環境に押し付けようとしている。では、人々の心の底に隠された悪気が現れるのは、一体いかなる外部環境による結果なのか。

「羅生門」には飢え死にをすべきか、それとも強盗になるべきかという選択肢に直面するより、むしろ生と死の選択肢だ。老婆の服を奪った下人も、死人に髪を引っ張ることを生計とした老婆も、生と死に直面している際に、世間の目を気にせず生を選んだ。

その背景は、頻繁な地震、経済不況、食物不足、止められない争いなど様々な災いにある。人々は様々な自然災害や人為災害に苦しんでいて、生と死に直面する時、いつか道徳も良心も捨てられてしまうのも珍しくない。だから、極端な状況では、人間性は試練に耐えられないのも理解できると思う。特に底の人々は、いつも死と隣り合わせにある。このような極端な状況において、誰でも良い選択や正しい判断をすることができない。

現実へ戻して考えてみれば、いざ私たちが彼らと同じ状況に陥っても、私たちは、果たして環境を批判しないでいられるのだろうか。あるいは、下人とは違う態度をとれるのだろうか。下人の現実への怒りは表面的なもので、その下には悔しさ、悲しみ、自己嫌悪、不安など表現できない感情があるかもしれない。

  上述の通り、私たちは、下人や老婆を非難する理由はないと思う。『羅生門』における出場した人物は多かれ少なかれある程度の利己主義を持っているが、それは外部環境の影響でクローズアップされたものだと思っている。つまり、悪人は、もともと悪人だったわけではなく、環境が悪人に変えてしまうことがほとんどだ。よって、生と死、善と悪とさまよう底の人々を通じて、崩壊と無秩序の時代を理解することも大事だと思われている。
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850