「カオナシ」と「正しく愛すること」の大切さ――『千と千尋の神隠し』

黄亦晴  福州大学

 

2001年の映画『千と千尋の神隠し』は、10歳の主人公・千尋が、ある日、両親と車で新居へ向かう途中、八百万の神々が棲む異世界に迷い込む場面から始まる。勝手に異世界の肉を食べた両親が豚にされたことから、千尋は、両親を助け元の世界へ戻るため、異世界にある銭湯の「油屋」で働くことを決心し、様々な難局に立ち向かいながらも徐々に成長していく。

この映画の中で、私が最も心を打たれたのは「カオナシ」という脇役だ。カオナシはその名の通り、顔がなく、白いお面をつけている。「顔がない」ということは、「眉・目・鼻・耳がない」というだけでなく、「他人と自分を区別する自我がない」ということでもある。では、なぜこのカオナシに興味を持ったのか。それは、「正しく愛すること」ができないカオナシの「淋しさ」に共感したからだ。

カオナシは嫌われ者だ。しかし、それを知らない千尋は、雨にずぶ濡れになっていたカオナシを油屋に迎え入れた。カオナシは、自分に愛想よくしてくれた千尋に、沢山の「薬湯札」をあげようとする。だが千尋は「そんなに要らない」と遠慮する。するとカオナシは、その一言が気に入らなかったのか、油屋で暴飲暴食した結果、大きな醜い怪物になってしまうのだ。

またカオナシは、親切にしてくれた千尋に、大量のお金をあげようとする。しかし千尋は、その申し出も断る。「要らない。ほしくない。私の欲しいものは、あなたには出せない」。そして千尋に「おうちはどこなの?お父さんやお母さん、いるんでしょう?」と聞かれた途端、「いやだ。淋しい、淋しい。千欲しい、千欲しい」とカオナシは辛そうに繰り返すのだった。

いくら食べても何をしても満足できないカオナシは、心にぽっかりと穴が開いた存在だ。カオナシは千尋に欲しくないモノを押し付けるが、モノを千尋に捧げることで愛を貰い、心の穴を埋めたかったのだろう。しかし、それは叶わない。なぜなら、「正しく愛すること」ができないからだ。

千尋はカオナシに親切にするが、相手から何らかの行動を期待しない。他方、カオナシは、相手に受け入れてもらうことを期待する。相手に好かれるためにモノやお金を捧げ、機嫌を取ろうとする。つまり「相手の気持ち」と「自分のニーズ」を無視した「自分勝手な行動」をとってしまうのだ。これで「正しく愛すること」ができるだろうか。「愛すること」は自分だけではなく、愛される相手にも関わることである。それゆえカオナシは、モノで愛を買うのではなく、「相手の為」を心掛けた行動をとるべきだった。そしてそれが「正しく愛すること」にもつながるのだ。

私もまた、学業やアルバイトなどで忙殺され、多くの友達に囲まれていても淋しさを感じる自分の中に、カオナシを見た。それは、私だけでなく、現代人の闇の部分でもあるだろう。カオナシは、その自分の中の闇を暖かい目で見つめ、「正しく愛すること」の必要性を教えてくれるのだ。

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