「摩滅」に直面する

栾霏 東南大学

 

また秋の気配が近づいて来る時期となった。去年の今頃、私は故郷を発ち、北海道大学へ留学に行った。季節の移ろいを感じつつ、ふと「穏やかな衰亡の途上にあることの悦び。摩る人はいつも時間の縁にいる」との一句を思い出した。それは最近読んだ四方田犬彦の著した『摩滅の賦』という本に出てくる言葉だ。

摩滅とは何だろう。著者は、それが磨滅とは異なり、物理的な意味に止まらず、深みのあるもので、そこには日本人の無常観や非対称の美学などが垣間見られると指摘した。人生の隠喩が散りばめられた秀作だと思う。国境を越えた相互理解を深める力が潜んでいるのだ、と考えるようになったのは、摩滅の視点から自分の留学生活を振り返ってからのことだ。

北海道の風物詩といえば、雪と氷が思い浮かべられる。今年の二月、私はボランティアとして札幌市の「まちの灯り」に参加した。幸せへの願いを込め、アイスキャンドルなどで地域を明るく照らす催しだった。氷の表面に凝結された朦朧たる滴りの美しさを実感した。固体から液体へ、それはまさに一種の摩滅だ。実際、雪不足のため、そういった祭りは規模の縮小を余儀なくされた。にもかかわらず、地域共同体の活動に対する人々の関心はいつにも増して高まっているようだ。それが、ものの寂滅を積極的に受け止める楽観的な生き方だろう。

さっぽろ雪まつりの準備に携わったこともある。ある年をとったお爺さんが雪像制作の削り作業の手順を私に熱心に示しながら、「何十年も同じことを続けることができたなあ。やればやるほど元気が出てくるじゃ」と言った。感動させられた。「老い」を糧にするかのような彼の精神の構え方に。これがまさに、時間の残酷さを人生の芸術に転じた摩滅だ。思えば、中国と同様に、日本は高齢化社会の様々な課題を抱えている。爺さんのようなお年寄りに、シルバー人材の活躍の場を提供することは、摩滅の真の意味を把握した上での知恵なのではないか。

 他にも興味深いことに気づいた。例えば、中国と比べると、日本の街角には、中古店の数と種類がずっと多いようだ。限定のアニメグッズなどには目がない私にとって、中古店での買い漁りは楽しくてたまらなかった。新品でなく、摩滅の時間を経験してきたものだ。そこには、想像力を膨らませる価値があると思う。一期一会という言葉が頭に浮かんでくる。

  摩滅に直面する人生を、我々は生きている。

国を問わず、今頃、コロナだけでなく、「不審」という名のウイルスとも戦っている人々の心が多少なりとも擦り減っているだろう。周りにもっと目を向けるべきだ。ポストコロナ時代に、摩滅を理解することができるなら、心の静かさを取り戻し、勇気を持って現実の薄っぺらさに対抗できると信じている。

人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850