悪と闘う

江艶梅 社会·退職して大学院への進学を目指している

 

 

 「私は要するにイデアなのだ。場合により、見る人により、あたしの姿は自在に変化する。あたしはいうなれば、人の心を映し出す鏡に過ぎない。」

 村上春樹の新作『騎士団長殺し』でいうイデアは理念・概念という一般の用法とは異なって、特殊な意味を表していると私は思っている。それは、ナチに対抗する組織から生き残った罪意識、戦争体験のトラウマ、妻を死んだ妹の代理として見ている主人公の無意識など、それぞれの登場人物の心に潜んでいる「悪」というものだ。主人公である「私」が生まれ変わるためには、「イデア」と決着をつけなければならない。かくして、騎士団長の姿で現れたイデアを殺した後、やっと善悪の重さから解放された。

  世界に光と影があるように、明るく輝く面があれば、その分暗い面も存在する。善があれば、悪も必ずあるのだ。たとえ人間が生まれつき「善」の要素を持っているなら、悪人になるのは成長していく過程で何か悪に染まるような出来事と出会ったからなのではないだろうか。逆に人は生まれながらにして悪性だったとしても、躾や教育などあらゆる努力をした結果、悪を克服できないこともない。

しかし人間は、その素質に関わりなく、置かれている状況や、環境、集団心理によって簡単に善人から悪人へと変貌する。アメリカの心理学者ジンバルド教授はこのメカニズムに「ルシファー効果」という言葉を名づけた。このことはアイヒマン・テストやスタンフォード監獄実験から明らかだ。何らかの条件によって、高慢や物欲、嫉妬、憤怒、色欲、貪食、怠惰など様々な悪のイデアが働き、悪魔に変貌してしまう。ここまで人類が犯した多くの過ち、なくならない戦争、お互いを受け入れられず非難し合う「机の戦争」、対立を招くスティグマタイゼーションはその悪によって引き起こされたのではないだろうか。

 無論、村上のことだから、イデアを殺すことが自由につながるという明確な結論を作中に示したりはしない。ただ、その代わりにここで、はっきりと描かれていることがある。それは、「私」がイデアと決着をつける中で、初めて自分と向き合うことができるのだ。

 人の心の深淵に隠されている悪のイデアと向き合い、立ち向かうことができ、新たな自己に出会うことができる。そして、悪と向き合わなければならないのは、社会や国家もまた悪と向き合わなければならないということだ。戦後75年を迎えるにあたって、歴史を置き去りにすることではなく、歴史に正しく向き合うべきだ。皆が手を共に携え、平和と繁栄を築き上げるのに努力し続けることができればこそ、この困難を乗り越えることができると、私は考えている。

 

 
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