黄永楽 浙江工商職業技術学院(卒業生)

日本のドラマを見るようになったのは大学一年生の時のことだった。元々は日本語の勉強に役立つと思って見たのだが、その初めての日本ドラマで、私がこの20年間で築いた世界観が覆されるとは全く思わなかった。初めて出会った日本ドラマは「リーガルハイ」だった。中国語の翻訳名は「勝者こそが正義」だ。
このドラマは、正義感や同情心にあふれる黛弁護士が、利益だけを求め、世間に嫌われている古美門弁護士のもとに、古美門を倒すために成長していく物語だ。しかし、その相手である古美門は敗訴したことが一度もなく、無敵な弁護士と呼ばれている存在だ。
このドラマを見て、私と同じく、この古美門によって世界観が覆された人は多いと思う。なぜなら、私達は最初は黛弁護士のように、「正義は必ずこの世にある」と深く信じていて、一方、勝利のためなら手段を選ばない古美門の卑怯なやり方に納得できなかったはずだからである。
しかし、物語の進展に伴い、黛の持っている考えの甘さに気が付いたり、古美門の流儀の正しさに醍醐味を感じたり、感服させられることもある。例えば次のシーンである。
黛は自分の正義を貫くために、自分は古美門側の人間であることをよそに、古美門の浅ましいやり方に不満の意思を示した。相手側を哀れんで、彼らを助けようとした。黛の行動に対し、古美門は「正義を求めるのは我々弁護士の仕事ではない。正義はどこにあるのかは神しか分からないことだ。弁護士としてやるべき事は自分の依頼人の利益のためだけに、全力を尽くして戦うことだ。依頼人の利益すら守らないのなら、弁護士失格だ」と答えた。このシーンから、私は「正義」と「法律」に対する思考が一層深まった。
私は法治社会よりもっと賢明な社会は人治社会だと聞いたことがある。人治社会では法律は要らない。この世界で最も賢明な人の管理に基づいて社会が成り立っているそうだ。物事の正否に関する全ての争いはその聖人のような人に判断させる。決して誰かを庇うこともなければ、どちらに偏ることもない。罪を犯した人は分相応の罰を受けることになる。想像してみると、確かにそのような社会では、今の法治社会よりもっと理想的に聞こえる。黛が求めているのはそのような社会ではないだろうか。しかし、それは全く実現不可能なことだ。公平無私のあの神のような聖人が存在し得ないだからこそ、黛が口にしている「正義」は古美門にバカにされているだろう。今の社会が法治社会である以上、全ての正否は法律によって判断しなければならないからだ。
私の世界観が覆されたのは、このシーンが原因だ。今の社会では、無実の罪を負わされた人もいれば、法律の裁きから逃れた人もいる。私は絶対的な「正義」はこの世に存在しないということに気づき、現実のリアルを改めて味わうことができた。