向立山。1964年に北京外国語学院(現・北京外国語大学)に入学し、英語を専攻。卒業後、タンザン(タンザニア・ザンビア)鉄道の建設支援に7年間参加。その後、湖北省外事弁公室に定年退職するまで勤める。一男一女がおり、共に結婚している。

火神山病院を退院する向立山さん(Vサインをしている男性)らと見送る医療従事者。両側にあるのは2階建ての病棟
向立山さんにとって、今年の春節はまさに夢の中にいるようだった。一家3人が突然新型コロナウイルスに感染し、さまざまな苦しみを乗り越えて1カ月半後に奇跡的に治癒し、再び家族団らんの日を迎えることができたのだから。
一変した春節
新型コロナウイルスが人から人へ感染することが分かってから、向さんと妻は外出を極力控え、2人の子どもの家族と年越し料理を食べるのも止めた。マンションの外にごみを捨てに行く時でも、夜を選んで誰もいないエレベーターに乗った。しかし1月29日から、向さんと妻、そして娘に相次いで発熱とせきの症状が出始めた。
こんなに気を付けている自分たちがウイルスに感染する可能性は低い、と向さんは思ったが、同月20日夜に近所の病院で薬を処方してもらったことを思い出し、また不安になった。日がたつごとに3人の症状は重くなったが、病気でもないのに病院に診察に行ってウイルスを持ち帰ってしまったらと考えると、家の中で耐えるしかなかった。
2月3日、病院を定年退職した向さんの妹が電話で具合を聞き、ただの風邪と思い込んで治療を遅らせてはいけないと、まずはCT検査をするよう勧めた。そこで3人は一緒に湖北省直属機関病院に行くことに決めた。血液検査を行い、インフルエンザウイルス感染の可能性を否定し、それからCT検査を行うと肺にすりガラス状の影が見つかり、直ちにPCR検査を受けるよう医師に指示された。
3人は慌ただしく夕食を食べ、娘の向菲さんの運転で省人民病院へ行き、列に並んでPCR検査を受けた。家に帰った時はもう4日の明け方だった。そしてその日の午後にネットで検査結果を確認すると、3人とも陽性だった。
陽性であれば直ちに入院して治療を受けなければならないが、当時は空き病床一つ探すことすら難しく、3人分ともなればなおさらだった。連絡できるところ全てに連絡し、打てる手は全て打ったが、希望はみな絶望に変わるだけで、3人は本当に天が崩れ落ちたかのように感じたという。
陽性が確定して2日目の午前6時頃、目を覚ました向さんに妻がむせび泣きながら、今日は娘の誕生日だと言った。家族3人の境遇を考えた向さんの心に悲しみが去来した。そして目玉焼き入りのラーメンを作り、向菲さんに「今日は誕生日だよ」と言ったが、言葉に詰まってそれ以上何も言えず、泣き顔を見られないよう早々にその場を離れた。

帰宅後に病院で血液を再検査する向さん。2月初めの検査がよみがえる光景だ
入院までの長い道のり
向菲さんの誕生日の昼食時、3人が今後の見通しが立たずに暗い先行きを案じている頃、向菲さんに病院の病床が一つ空いたという吉報が舞い降りた。彼女は早速父親と相談し、先に母親を入院させることを決定。車を運転して母親を病院まで送り、母親の代わりに一切の手続きを済ませてから戻った。誕生日にこのような方法で、自分を育ててくれた母親に恩返しをしたのだった。
この日は向さんも空き病床を確認しようと、さまざまな方法を考えた。その夜、外事弁公室の離職・定年退職幹部管理課の包課長に電話をかけ、包課長を通じて自分の住んでいる居住区を管理する社区(コミュニティー)に入院の申請をした。
その日の深夜にコミュニティーから電話があり、武漢市武昌区の洪山体育館を改造した武昌仮設病院が現在患者を受け入れていることを教えられた。2人はあたふたと荷物をまとめ、雨夜の中指定された場所へ向かい、そこから他の人々と一緒にバスに乗った。そして体育館付近に着くと、仮設病院に入院する感染患者を乗せた車が道路に長蛇の列をなしているのが見えた。
この仮設病院は2日前にテレビに姿を現したばかりのものだ。その目的は、最短時間で軽症患者を集中的に隔離治療し、コミュニティーや在宅隔離中の交差感染を防ぐためにある。向さんたちに深夜入院の通知があったのは、その日に武漢市が全感染患者を直ちに収容することを要求したからだ。
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武昌仮設病院の医療従事者
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向菲さん
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仮設病院に入院後も向さんの高熱は治まらず、呼吸困難の症状も出てきた。包課長は微信(ウイーチャット。中国版LINE)で「気をしっかり持ってください。苦しいことがあっても一緒に乗り越えましょう」というメッセージを送り、向さんを励ました。仮設病院では当分薬を処方しないということを聞くと、雨の中自転車をこいで薬を持って行った。医師は向さんが75歳の高齢で高血圧などの基礎疾患を持っていることを知ると、その夜の会議で向さんともう一人の重症患者をすぐに転院させて治療することを決めた。仮設病院に来てからわずか十数時間で、向さんは娘とも離れ離れになった。
向さんの搬送先は湖北省人民病院の3人部屋の病室だった。同室の患者から、ここは感染症治療の指定病院ではないので、また転院が必要なことを告げられた。その日は2月8日の元宵節だったので、病院が用意した湯圓(もち米の団子)を食べてから、数人の患者と一緒に火神山病院行きの救急車に乗った。
二人三脚の治療生活
向さんはまだ家にいた頃、1000床もの病床数を持つ火神山病院が着工から10日間で完成したというニュースを見たのをはっきり覚えている。しかし完成6日後に自分が入院することになるとは思いも寄らなかった。
向さんが救急車から降りると、広州の中国人民解放軍南部戦区総病院から派遣された医療従事者が外で待機していた。看護師が向さんを病室まで運び、酸素吸入器を取り付けた。向さんたちの病室を担当した劉大勇医師は、患者が健全な精神状態を保つために治療に協力し、休憩を多めに取り、食事と水分をよく摂取し、自身の免疫力を高める努力をするよう求めた。
火神山病院の病室内での向さん
火神山病院に入院中、向さんは最高で39・4度の熱が出た。高熱が続く日々では、薬の服用による大量の発汗で服がぬれ、1日に最低3回は着替えなければならなかった。入院1週間後にしてようやくシャワーを浴びることができ、体温もその日に37・5度を下回った。それから体温が再び上がることもなく、18日間続いた熱がようやく引いた。
入院中は、通路に沿って95歩で行ける水飲み場のほかは病室内で過ごした。火神山の病室はいずれも陰圧室になっており、各病室にはバイタルサイン測定機器や空気清浄機、空気殺菌機が設置されていた。1日3食の食事と服用する薬は専用の窓口から提供された。
栄養を取るのも免疫力強化の大切な一環だ。発熱中はベッドに横になり、鼻カニューレで酸素を吸入している時でも食事を取ったが、ほぼ毎回完食した。看護師の莫維潔さんが食事を配り終わってから向さんたちの病室を通る時、必ず窓をたたいて「おかわりは必要ですか?」という札を見せるほどだった。
体温が正常に戻ってから呼吸困難の症状も徐々に改善し、向さんは2月27日~3月3日に3回PCR検査を受けたが、結果はみな陰性だった。3月4日に医師からCT検査を受けるように言われたが、今回はあらゆる面で状態が20日前と別人のようだった。その前にすでに簡単なリハビリを受けており、最初は十数分間ゆっくりとしか歩けなかったが、徐々に30分間は歩けるようになった。CTスキャンの結果、肺の影は前回検査時より明らかに小さくなっていた。その後の抗体検査も滞りなくクリアし、感染症科専門家グループの話し合いの結果、退院を許可された。
ホテルでの隔離期間を満了した向さんと見送る王チーム長
3月6日午前、向さんが仲の良い看護師や入院仲間に翌日退院できることを知らせると、みんなとても喜んでくれた。その日の夜11時過ぎ、向さんの病室を担当する看護師の蒋秋蘭さんがお祝いにやって来た。医師や看護師が自分のためにしてくれた数々の思い出がよみがえり、全ての医療従事者に心の中で感謝した。「皆さんありがとう。私が無事に火神山病院を退院できたのは、皆さんが危険を顧みずに己の生命を賭けて助けてくれたおかげです。1カ月間生活を共にしてきましたが、声を聞くばかりで顔をはっきり見たことはありません。来年の桜の花が咲き誇る頃、武漢に来て花見をし、黄鶴楼に登ってください」
家族との新たな生活の始まり
3月7日午後、向さんは医師や看護師らに見送られながら退院した。だが火神山を去っても直接家には帰れず、ホテルでさらに14日間の隔離観察を受けなければならなかった。隔離生活の手配と検査は広州の医療チームが担当した。ホテル隔離中は約30人がそれぞれの部屋で過ごしていたが、医療チーム長の王さんが立ち上げたグループチャットでいつでも会話ができた。医療チームは親しみを込めて彼らを「家族」と呼び、その親切丁寧な扱いは「家族」全員の心に深く刻まれた。
3月21日、向さんはついに自宅へ帰ることができた。自宅には向さんより10日前に戻っていた妻がおり、室内がきれいに掃除されていた。向さんは帰宅して早速スープをつくり、翌日帰って来る娘のための食事を用意した。こうして3人は1カ月半ぶりにようやく再び一家団らんを過ごせたのだ。
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1カ月半ぶりの団らん。新しい生活が始まった
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市場で野菜を買う向さん
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4月8日に武漢の封鎖が解除されてから、自動車や通行人の姿が日に日に増え、向さんの生活も元通りになっていった。医師や看護師、そして入院仲間とは今でも連絡を取り合っている。「今は養生することが先決です。命を大切にし、会いたい人、行きたい場所、やりたいことをしっかりと心に留め、日々をよく過ごすべきです」
国際業務に長年携わっていた向さんは、1979年に武漢市が大分市と友好都市を締結し、武漢の東湖桜花園に田中角栄元首相が贈った桜が植樹されていることを知っている。また、84年に当時の中曽根康弘首相の訪中団が武漢を訪れた際は応接業務に当たった。そのため、火神山病院入院時に微信で、日本からの支援物資が入った段ボール箱に添えられていた「山川異域 風月同天」の詩を見た時、感動のあまり涙を流した。
現在の世界的な感染拡大について向さんは、行ったことがある美しい国々がウイルスの猛威にさらされているのを見ると胸が苦しくなると言う。各国の政府と人々が手を取り合い、この人類の災難に共同で対処し、一刻も早く地球という家が正常な生活を取り戻すことを望んでいる。(文=本誌副社長 王漢平 写真提供=向立山)
人民中国インターネット版 2020年5月27日