家族説得し増援に駆け付け

 

馬楠。2000年に吉林省の北華大学医学院に入学し、臨床医学専門課程を専攻。現在は大連市第四人民病院神経内科の主治医。小学2年生の息子がいる。

武漢で感染が拡大し、全国各地から派遣された340以上の医療チームに所属する4万2600人余りの医療従事者は武漢市と湖北省の他の都市に駆け付けた。危険を顧みず敢えて赴いた医療従事者たちは、白衣の戦士や最も美しい逆走者とたたえられた。医師の馬楠さんもその一人だ。

 

雷神山病院にいる馬楠さん

 

医師として支援に志願 

本来決まっていた馬さんの春節時の勤務表は、旧正月当日と翌日に出勤し、それから4日間休みというものだった。そこで、家族で雪景色のハルビン(哈爾濱)を旅行する計画を立てていた。しかし感染拡大が進むにつれ、馬さんが所属する大連市第四人民病院が全医療従事者に待機命令を出したので、すでに予約済みの高速鉄道のチケットやホテルも全てキャンセルした。

大連の医療チームの第1陣が武漢に向かったのは1月25日。馬さんも武漢で生命の危機にひんしている患者を助けに行き、医者としての価値を証明したかった。そして2月8日午後4時に大連市第四人民病院が全医療従事者に向け、第3陣の大連医療チームに参加する志願者の募集を始めた。馬さんは考えるまでもなく、すぐに夫と息子に武漢へ行くことを伝えた。募集し始めてから30分足らずで、病院は医師5人と看護師5人の計10人のメンバーを決めた。母親が武漢へ行くと聞き、ウイルスの危険性を知っていた息子は、母親がいなくなることを恐れて泣いた。夫は本人の意思を尊重した。

3時間後、支度を整えて出発を待つだけという時に馬さんの両親が見送りに駆け付けた。父親からどの病院の支援に行くのかと尋ねられたが、馬さんは「決まっていない」と答えるしかなかった。父親からは「指示に従い、体を大切に」と声を掛けられ、母親からは「何で武漢に行くことを私たちと相談しなかったの?」と涙ながらに訴えられた。しがみつく息子からは「きっと帰ってきてね」と約束された。

その夜は大連の十数の病院から511人の医療従事者が集結した。全員が空港に向かい、9日未明に大量の医療物資を積んだ4機の専用機に乗って武漢へ飛んだ。 

武漢出発直前、泣いている息子と写真を撮る馬楠さん 

馬さん(手前)の雷神山病院での夜勤初日。段ボール箱を机代わりにし、椅子をベッドにした 

  

秩序立った50日間の死闘

医療チームが武漢市内に到着した頃はもう空が白み、飛行機の中で2時間程度しか睡眠を取れなかった馬さんたちは早速仕事の準備に取り掛かった。先に物資を各地に発送してから、業務前の想定訓練を行い、人員の配置を行った。ちょうど医療チームが武漢に到着した日に雷神山病院が完成したので、馬さんたちはその病院での勤務となった。

雷神山病院は火神山病院と同じく新築の指定病院で、外来診察はなく、感染症患者を集中的に収容し治療する病院だ。1400以上の病床、32の治療エリアを有し、大連チームが属する遼寧省医療チームはそのうちの18の治療エリアを担当した。馬さんは、40の病床があり、約60人の医療従事者が働くA13エリアに割り当てられ、4人の医師と8人の看護師と同じグループになった。

新築病院の病室は当然まだ空っぽだ。チームは物資を少しずつ運び入れ、設備を並べた。病院は建設しながら建築確認し、そして収容・治療したようなものだった。正式な診療が始まった当日の夜、34人の患者が次々と診察を受けて入院した。最初はとても慌ただしかったが、全員がすぐにペースをつかんだ。1週間後に病院から最初に退院したのは馬さんの治療エリアの患者だった。大連医療チームの第3陣は八つの治療エリアに入院する365床の患者の治療に当たり、最終的に509人を治療した。

医療従事者らは日勤と夜勤に分かれた。日勤組は朝7時20分にホテルを出発し、約30分後に病院に着いてから防護服を着用、夜勤組と交代してから午後4時半にまた次の夜勤組と交代する。夜勤組は午後3時にホテルを出発し、病院に着いてから準備をして日勤組と交代し、翌日の朝まで働く。業務時間は約十五、六時間で、間に休憩を挟める。

馬さんは日勤と夜勤をどちらも行った。主な業務は回診で、患者の臨床症状を観察・記録し、患者に抗ウイルス薬や漢方薬などの対症療法を行い、呼吸困難の症状を緩和させた。もう一つの重要な仕事は、患者たちが病気に打ち勝つ自信を持つよう励ますことだった。鄧さんという女性患者はすでに定年退職しており、30歳になる娘がいるが、夫は鄧さんが雷神山病院に転院する数日前に感染症で亡くなった。症状は重くなかったが、彼女は馬さんを呼び止めては本当に大丈夫なのかと何度も確認し、深夜に呼び出して2時間以上話をした日もある。「娘を一人にさせられないから、絶対に生きて帰る」と口にしていた鄧さんは、ここで2週間入院し、退院時に医療従事者に深々と頭を下げた。

院内は汚染区域、潜在的汚染区域、清潔区域に分け、医療従事者専用通路と患者専用通路を分離した「3区域2通路」が設置された。防護用品も規定を厳格に順守して着用し、互いに確認することで、30分以上の時間がかかる。このように厳しい防護措置を取ったからこそ、医療従事者の中から今回一人の感染者も出なかった。馬さんは初めて防護服を着用してこれから治療エリアに入ろうとした時、言い表せない恐怖がよぎった。恐怖を克服して中に足を踏み入れた瞬間、医療チームが誓った「死を恐れない」という言葉の真の意味を、身をもって実感した。それは、国家や同胞のためなら全てを犠牲にすることをもいとわないという信念だった。

北方の大連から来た馬さんにとって、南方の武漢は気候が合わなかった。大連の医療チームはダウンジャケットを着て来ており、北方は寒いが、室内には暖房が入っているため暖かかった。南方はじめじめとして寒い上に、ホテルには暖房がなく、また空気感染のリスクを減らすためにセントラル空調も使用していなかったため、寒さに震える日々を過ごした。しかし最もつらかったのはやはり心理的なものだった。幸い馬さんが割り当てられたグループの雰囲気は良く、医師はだいたい30~40代、看護師は20~30代がほとんどで、異なる地方や病院から集まった彼らは互いに気を配り、生死を共にする友情を結んだ。

 

隔離病棟の回診で患者の容態を聞く馬さん

応援と感謝の声に支えられ

馬さんは病院からホテルに戻るといつも一人でおり、寂しさを紛らわせるために読書をしたりテレビを見たりしたが、一番の楽しみは家族とのビデオチャットだった。馬さんの夫は子どもの世話をし、勉強を見てご飯を作るほか、会社の仕事と防疫もこなした。馬さんが大連に戻る数日前、夫から次のようなメールが届いた。「自分の心も漢江(長江最大の支流、武漢で長江に合流)のほとりにある。あなたが国のために命を懸けるのなら、自分は家庭を守り帰りを待つ。一人一人が自分の持ち場で貢献している」。馬さんの息子は以前より聞き分けがよくなり、学校では「休校しても教育は止めず」の方針のオンライン授業で栄誉賞を受賞した。母親に送った2通のメールには、自分は誇らしく思っていると書いてあった。

武漢にいた間、馬さんには学生時代のクラスメイトや友人からの電話やメッセージが何度も寄せられ、「英雄」とたたえられた。しかし馬さんはこう話す。「私は英雄ではなく、普通の医者です。武漢に来る前は怖かったですが、それでもここに来ることを選びました」。国際女性デーの3月8日、馬さんはたくさんのプレゼントをもらった。市や病院、党組織からは何通もの見舞い状が届き、家には果物や野菜などが送られ、充実した生活が保証された。

3月中旬から武漢での新規感染者数が減少し続け、2桁から1桁台になり、馬さんは勝利が近付いているのを確信した。馬さんが担当する治療エリアは3月28日に患者が一人もいなくなり、その日に閉鎖された。多くの治療エリアもそれに前後して閉鎖し、大連から来た第2、3陣の医療チームは30日に飛行機で大連に帰ることになった。

武漢出発時、空港行きのバスが出ると沿道では大勢の市民がベランダに出て、または窓から顔を出して彼らに手を振り、「私たちのために一生懸命働いてくれてありがとう!」と叫ぶ人もいた。馬さんからすれば、武漢市民が多大な犠牲を払ったからこそ、自分たちが短期間で感染拡大を抑制できたのであり、馬さんもまた彼らに感動した。

 

馬さんは4月13日に大連の職場に戻り、家族や同僚に出迎えられた。馬さんの息子が持っているポスターは、大連市が武漢支援へ行った医療従事者に敬意を表して作られたもので、市内各所に貼られた

 

大連に戻った馬さんたちは金石灘リゾートエリアにあるホテルがあてがわれ、そこで規定通り2週間の隔離生活を過ごした。医療チームも同様に手厚いもてなしを受け、英雄の凱旋のように扱われた。「私は医師としての責任を果たしただけですが、社会の各方面から多大な注目を集めてしまいました。使命を全うした生き方に悔いはなかったと自分に言いたいです」と、馬さんは感慨深げに語る。

馬さんは普段、息子と共に『ドラえもん』や『千と千尋の神隠し』などの日本のアニメをよく見て、家族で大連の日本料理店へ行く。今回、日本による中国への多数の支援、特に松山バレエ団一同が「武漢頑張れ!中国頑張れ!人類頑張れ」と唱和したことに対し、涙が止まらなかったという。ウイルスには人種も国境も関係なく、全世界の人々が団結して互いを支え合い、一緒に感染症と闘えばウイルスのまん延をより早く抑制できると馬さんは語る。武漢へ行った彼女と戦友たちはいつでも再び出陣できるよう準備している。

医療チームへの感謝を表すポスターに書かれていた「来ない春はない」という言葉は、馬さんのお気に入りだ。全世界に春が早く訪れますようにと、馬さんは今日も願っている。

 

[補足]

今回の感染拡大では湖北省、とりわけ武漢市の被害が最も深刻だった。より良い治療を行うため、国家と各省・直轄市・自治区から医療チームが武漢支援に重点的に派遣され、ペアリング支援措置を取って、湖北省の16の地級市に対し「1省が1市に当たる」体制をつくった。遼寧省からは合わせて11回2054人が派遣され、武漢と襄陽を援助し、計3070人もの感染患者を治療した。襄陽では三つの市属病院と四つの県指定病院の16の治療エリアを担当した。(文=本誌副社長 王漢平 写真提供=馬楠)

 

人民中国インターネット版 2020年5月27

 

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