
西安の大雁塔は、唐代の玄奘(三蔵法師)によって修築されたもの。玄奘はシルクロードを通って天竺(今のインド)に仏法を求め、持ち帰った仏典や仏像を大雁塔に保存した(写真・秦嶺)
前漢以降、長安は都としてさらに後漢や西晋など八つの王朝の交代を経験した。漢の長安城が荒廃したため、隋の統治者は城の南東に新しい都・大興を建設した。現在の西安市は、そこを基礎として発展し続けてきた。
唐代の増築により、大興城は規模が拡大し、再び「長安」に改名された。唐の長安城は当時世界最大の都市となり、100万人近くが暮らしていた。唐代の詩人・白楽天は、「百千家、囲棋局に似たり」という詩句で、長安城の整然とした碁盤目状の都市計画を詠った。
渭河の南岸にある驪山は、秦の始皇帝陵の所在地であるだけでなく、白楽天の『長恨歌』に描かれた華清池も、その麓の華清宮の中にある。唐の玄宗と楊貴妃はいつもそこで遊び、入浴していたという。二人の愛情物語は『長恨歌』によって後世に広く語り継がれている。
唐代の長安は開放的な国際都市として、その影響は東アジアから欧州にまで及んだ。そのため、現代でも海外で中国人はよく「唐人」と呼ばれている。空前の経済的・文化的繁栄は四方の諸国を引き付け、日本をはじめとする東アジア諸国は何回も使者を唐に派遣した。3000人以上の外国人が唐王朝で官吏として働いていたという。現在西安にある興慶宮公園の阿倍仲麻呂記念碑と青龍寺の空海記念堂には、長安に滞在した二人の遣唐使の足跡と、彼らによる中日友好への多大な貢献が記録されている。
現在の西安の城壁は、唐代の長安の皇城を基礎に、明の時代に建てられたものだ。600年以上の風雪に耐えてきた城壁の下には、人々が行き交う西安駅がある。城壁の上から眺めると、互いに引き立て合う唐風の建物と高層ビルが遠くに見える。ここでは、歴史と現代が完璧に融合している。何千年たっても変わらないのは、その寛容さと開放感だ。

唐王朝の政治中枢・大明宮にある太液池の遺跡。前世紀末から、中日両国の専門家が共に発掘調査を行い、ここから唐代の瓦や陶器などの文化財を数多く発見した