2000年続く国際都市

阿倍仲麻呂記念碑の前で、ガイドから唐代の「日本人留学生」の物語を聞いている日本人観光客

  唐の時代、中日両国間の文化交流は空前の大盛況だったと言っても過言ではない。日本は前後十数回にわたって唐に使者を派遣し、唐の政治や芸術、文学、経済、建築などさまざまな面を深く学んだ。過去に日本の首都だった「平安京」「平城京」の建築スタイルからも唐の長安城の影響が見て取れる。

  716年、500人余りの遣唐使を乗せた日本の船が唐の港に到着した。初めて唐の地を訪れた当時19歳の阿倍仲麻呂は、同地の文化に魅了され、「晁衡」という唐名を得た。その後、唐の最高学府「国子監」に入って勉学に励み、努力によって科挙に合格し、朝廷で官職に就いた。晁衡は長安で長い年月を過ごし、その間、詩人の李白や王維などと親交を深めた。

  753年、晁衡は日本に戻る途中海難に遭った。晁衡が海の底に沈み亡くなったといううわさを聞き、李白は『哭晁卿衡(晁卿衡を哭す)』という詩を書いて晁衡を悼んだ。しかし生きて長安に戻った晁衡は、このことを聞いて深く感動し、有名な『望郷』を書いて李白に贈った。1970年代、西安に建てられた「阿倍仲麻呂記念碑」には、その二つの詩と二人の間の真摯な友情が刻まれている。晁衡は唐に54年間滞在し、3代の皇帝に仕え、長安で亡くなった。彼は自分の地位と影響力で中日両国の学者らの往来に多くの便宜を与え、日本に対する中国の人々の理解を深めた。

  中国には玄奘(三蔵法師)が西に向かって経典を求めるという話があるが、日本にも同じようなことをした有名な僧侶がいた。彼の目的地は唐の長安だった。804年、空海は密教を求めるため、遣唐使船に乗って、翌年に長安に着いた。その後、空海は青龍寺で唐の高僧・恵果法師に弟子入りし、唐の文化に深く触れた。帰国後、空海は日本で真言宗を開き、西安の青龍寺は日本の真言宗の信徒にとっても「祖庭」となった。空海は漢字の草書にならって、平仮名を作り出したという伝説がある。また、彼が書いた『文鏡秘府論』には中国の南北朝時代から中唐時期にかけてのさまざまな詩の作り方や理論著作が収録されている。空海は日本の詩壇に新たな風を吹き込み、日本の漢詩の発展を大いに促進した。

  空海を記念するため、1982年、中日両国の努力によって、西安の青龍寺に空海記念碑と空海記念堂が建てられた。青龍寺が日本から移入した1000本以上の桜は、中日両国の友好を象徴し、今も毎年咲き続けている。

  唐の長安に学問を求めた人物には、金可記という名の新羅人もいた。朝廷で官職に就くのをやめ、長安の道教寺院・金仙観に隠せいしながら修行をしていた。彼の弟子には韓国の漢文学の開祖として後世に知られる崔致遠がいた。崔致遠も一時長安で留学し、帰国後に新羅で伝道し、長安生活を回想する詩もいくつか作った。金仙観は韓国の人々から韓国の道教の「祖庭」として重んじられ、今でも数多くの韓国の道教信者が参拝に訪れている。

  現代になり、西安は日本の奈良や京都、韓国の慶州や晋州などの町と姉妹都市になった。日韓両国との間には経済と文化の交流が絶えることなく続いている。2011年には、韓国のサムスングループが70億㌦を投資し、西安に半導体工場を置いたことで、1万人以上の韓国人が西安で生活するようになった。唐の時代に築かれた友情は1000年の時空を超え、新たな形で続いている。