秦腔


伝統的な秦腔の演目には民間の演劇の手法が多く取り入れられている。写真の「吹火」は、妖怪や幽霊に関する演目の中でよく使われる絶技

  城壁の下で二胡を弾き、秦腔を「ほえる」ように歌うのは多くの西安人にとっての日常だ。中国最古の演劇の一つとして、秦腔は京劇を含む後世の多くの種類の演劇に深い影響を与えた。秦腔は西周の頃に生まれた民間芸術の一つだ。陝西省の作家・賈平凹は散文『秦腔』の中で、「秦腔は農民の苦しみから生まれた喜びである」と書いている。かつて農民は一日の労働の後、広野で思い切り秦腔を「ほえる」ように歌うことによって、体の疲れを洗い流した。黄土高原には谷間が縦横に走っており、交通が不便だったため、谷間に阻まれた人々はほえるように大声で会話するしかなかった。だから、秦腔の神髄は「ほえる」ように歌うことにある。情熱的で率直な陝西省の人々はこのような痛快な形で、心の中にある喜怒哀楽を表すのが好きだ。

  辛亥革命の時期に、西安で設立された「易俗社」は、秦腔の演目や歌い方などを革新し、ブルジョア民主主義革命をテーマとする新しい演目を多く上演した。近代の文豪・魯迅も易俗社の「大ファン」だったという。今年10月に西安で行われた中華人民共和国第14回全国運動会の開幕式では、壮大な秦腔のパフォーマンスが多くの観客を驚かせ、この伝統的な演劇に育まれた新たな生命力を示した。

  一方、西安鼓楽は民間に根付いた秦腔と違い、唐の宮廷で生まれたものだ。もともとは宴の音楽だったが、安史の乱(755~763年の唐王朝の内乱)の際に、宮廷楽師が亡命したことによって、民間に伝わったという。楽譜は中国古来の漢字記譜の方法を使い、陝西方言で歌い、口伝えで継承する必要があるため、中国古代音楽の生きた化石と呼ばれている。

  曲風が厳かな西安鼓楽は、唐の宮廷で歌や踊りの宴会が催される太平の世の光景を連想させる。代表的な曲『秦王破陣楽』はもともと唐の軍歌で、その楽譜が伝承されていく中で、中日交流の逸話も生まれた。則天武后の時代(690~705年)に、日本の遣唐使・粟田真人が同曲の楽譜を日本にもたらした。後に、唐王朝が所蔵していたものは失われたが、中国の芸術家が、日本で保存されていた『秦王破陣楽』の琵琶の楽譜を複写・解読して改作した。こうして唐に由来する古い音楽は再び故国の上空に響き渡った。

  西安の周至県や長安県などに設立された多くの西安鼓楽社は、祭りの時期になると各地の廟会(縁日)で上演し、時には海外に招かれて公演を行うこともある。2019年3月、周至県の芸術家たちによる西安鼓楽は、日本の伝統楽器「和太鼓」と共に大阪府富田林市の舞台で演奏され、地元の人々に目と耳で楽しむ異文化交流の宴をもたらした。