始皇帝の壮大な土木工事


1980年に始皇帝陵から出土した大型彩絵銅車馬。華麗に装飾された銅車馬は細部まで生き生きとして、人物の指にある爪さえはっきりと見える

  歴史上の西安は多くの名前を持っていた。最初にこの地に都を建てた西周王朝に付けられた「豊鎬」という名は、実は現在の西安市長安区の灃河の両岸にあった「豊京」と「鎬京」という二つの城を合わせた名称だ。西安の都としての1100年の歴史は、「豊鎬」から始まった。

  その後、西安は中国初の統一王朝である秦の首都となり、「咸陽」と名付けられた。秦は戦国七雄の六国を滅ぼした後、大規模な土木工事を行い、都の規模を拡大し続けた。現在発見されている秦の咸陽城の遺跡は西安と咸陽の両市にまたがっている。秦の始皇帝・嬴政の命令により、万里の長城をはじめとする多くの壮大な工事が始まった。その中には、咸陽と北方地域を結ぶ古代の「高速道路」である「秦直道」や、「天下一の行宮」と呼ばれる「阿房宮」などがあった。現在の西安市の西郊にある阿房宮は、唐代の詩人・杜牧が後世よく知られることとなる『阿房宮賦』で詠んだように、「五歩に一楼、十歩に一閣」と言われるほど、豪華なものだった。この宮殿は竣工前に秦の滅亡に伴い焼失したが、世界最大の宮殿の基礎が後世に残された。

  嬴政は13歳で秦王に即位したときから、自らの陵墓の建設工事を始めた。秦の始皇帝陵は咸陽城の構造をまねて、嬴政の時代の宮殿、山河、軍隊などを陵墓の中で再現したものだ。その壮大な規模と豊富な内容は世にもまれなものである。


出土したばかりの兵馬俑には、完全なものがほとんどない。たくさんの陶俑の破片を専門家が分類・接合して、修復する必要がある

  1974年、始皇帝陵の周辺で井戸を掘っていた西安の農民が、割れたよろい姿の「瓦人形」と銅製の青い矢じりを掘り出した。その後の発掘調査で、2000年以上も地下で眠っていた7000体以上の陶俑が発見された。後に「世界の8番目の不思議」と称される「兵馬俑」である。兵馬俑の顔はそれぞれ異なり、陶馬の一頭一頭までも本物そっくりで、当時の芸術と技術の水準の高さを物語っている。

  秦の始皇帝陵は阿房宮、秦直道、万里の長城と合わせて「始皇帝の四大工事」と称されている。秦王朝はわずか十数年で滅亡したが、これらの壮大な工事の遺跡は、中国初の統一王朝を知るための重要な鍵となっている。

            

秦の始皇帝陵の兵馬俑坑は世界最大の地下軍事博物館といわれ、中に展示されている兵種、武器、軍陣は、古代軍事史の研究にとって貴重な資料となっている