新疆の歴史に関する幾つかの問題(二)

 

一、新疆は中国領土の不可分の一部である

統一された多民族国家の中国の形成は、経済と社会の 発展の歴史的必然である。歴史上、中華民族およびその 祖先を育んだ東アジア大陸には、農耕地区もあり遊牧地区などもあった。さまざまな生産生活様式を持つエス ニックグループの交流相互補完、移動集合、衝突 融合は、統一された多民族国家の中国の形成と発展を推 進してきた。

中国の歴史上、最も古い幾つかの王朝の夏、商、周が 前後して中原地区で興り、周囲の大小さまざまな氏族、 集落、集落連合と次第に融合して形成されたエスニック グループは総称して諸夏あるいは華夏という。春秋時代 と戦国時代を経て、華夏エスニックグループは王朝の 周辺の氏族、集落、集落連合と不断に交流、融合し、次 第に斉秦といった七つの地区を形成し、さらにそれぞれが東夷、南蛮、西戎、北狄など周辺諸族とつながっていた。紀元前 221 年、秦の始皇帝は史上初の統一された封建王朝を建てた。紀元前 202 年、 漢の高祖劉邦が再び統一された封建王朝を建てた。

漢代から清代の中後期まで、新疆の天山南北地区を含む広大な地域はまとめて西域と呼ばれた。漢代より、 新疆地区は正式に中国の版図の一部となった。漢代以 後、歴代の中原王朝は強くなったり弱くなったりして、西域との関係は疎遠になったり密接になったりで、新疆地区に対する中央政権の管理統治はきつくなったり緩 くなったりしたが、いずれの王朝も西域を領土として見なし、当該地区に対して管轄権を行使していた。統一さ れた多民族国家の中国の歴史的発展変化において、新 疆各民族人民は全国人民と共に中国の広大な領土を開拓 し、共に多元的で一体化された中華民族の大家族を築き 上げた。中国の多民族大統一の枠組みは、新疆各民族 人民を含む中華民族のすべての人々が共に奮闘してきた 成果である。

前漢前期、中国北方の遊牧民族の 匈 奴は西域地区を支配し、また、しきりに中原地区を侵犯した。漢の武帝は 即位した後、一連の軍事的措置と政治的措置を講じて匈奴に反撃した。紀元前 138 年と紀元前 119 年、2 回にわたって張騫を使節として西域に派遣し、月氏や烏孫などと共同で匈奴に対処した。紀元前 127 年から紀元前119 年にかけて、3 回にわたって出兵して匈奴に大きな打撃を与え、また前後して内地から西域までの要害で武威、張掖、酒泉、敦煌といった四つの郡を設立した。紀元前 101 年には、ブグル(輪台)などで屯田を行い、地方官吏を置いて管理させた。紀元前 60 年に、新疆の東 部にある天山の北のふもとを支配していた匈奴の日逐王が漢王朝に投降したことで、前漢は西域を統一した。同じ年に、西域を管理する軍政機関としての「西域都護府」 が設置された。123 年に、後漢は「西域都護府」を「西 域長史府」に改め、引き続き西域を管理する職権を行使した。

三国時代の曹魏政権は漢の制度を引き継ぎ、西域に「戊 己校尉」を置いた。西晋は西域に「西域長史」や「戊己 校尉」を置いて軍政事務を管理させた。三国と西晋晋時代に、北方の匈奴、鮮卑、丁零や烏桓などの民族の一部は内地に移動し、最終的に漢族と融合した。327年、前涼 政権は初めて郡県制を西域まで広く行き渡らせ、高昌郡(トルファン〈吐魯番〉盆地)を設立した。

460 年から 640 年にかけて、トルファン盆地を中心に、漢人を主な住民とする高昌国が築かれ、闞氏、張氏、馬 氏、麴氏を経た。隋代に、中原地区の長期にわたった割 拠状態が終わり、新疆地区での郡県制の範囲が拡大された。突厥、吐谷渾、タングート(党項)、嘉良夷や附国などの周辺の民族は前後して隋王朝に帰順した。唐代には、西域に対する中央政権の管理は大いに強化され、前 後して「安西大都護府」や「北庭大都護府」を設置して天山南北各地を統轄させた。于闐王国は唐王朝の宗室だと自称し唐王朝の国姓である李を名乗った。宋代、西域の地方政権は宋王朝と朝貢関係を保った。高昌回鶻は「中朝(宋王朝のこと)」を伯父と尊称し、自らを「西州の甥」と称した。カラ(喀喇)汗王朝は何度も宋王朝に使臣を派遣して貢物を献上した。元代には、「北庭都元 帥府」や「宣慰司」などを設置して軍政管理を行い、西 域に対する管轄を強化した。1251 年、西域では行省制が実施された。明代、中央政権は西域の事務を管理する 機関として「ハミ(哈密)衛」を設置し、さらに前後し て嘉峪関とハミの間に安定、阿端、曲先、罕東、赤斤蒙 古、沙州といった六つの衛を設置することで西域の事務を支援、管理した。清代、清朝政府はジュンガル(準噶 爾)の反乱を平定し、中国の北西地区の境界が確定され た。その後、新疆地区に対してより系統立った統治政策 を実行した。1762 年に「イリ(伊犁)将軍」を設置し、軍政が一体化した軍府体制を実行した。1884 年に新疆 地区に省を設置し、「故土新帰(新しく復帰した領土)」 の意を取って西域を「新疆」に改称した。1912 年、新疆は辛亥革命に積極的に呼応し、中華民国の省の一つに なった。

1949 年に中華人民共和国が成立し、新疆は平和的に解放された。1955 年に新疆ウイグル(維吾爾)自治区 が成立した。中国共産党の指導の下で新疆の各民族人民 は全国人民と共に団結して奮闘し、新疆は歴史上最も良い繁栄発展の時期に入った。

長期にわたる歴史の歩みにおいて、中国の領土は割拠 の時期も統一された時期もあり、統一と割拠が交替、循 環しているが、国の統一的発展は一貫して主要な方向である。異なる時期に中原地区に諸侯国あるいは割拠政権が存在したのと同じように、新疆地区でも何度も地方政 権が割拠する状況が生じた。だが、これらの政権はたと え割拠の時間がどんなに長くても、その局面がどんなに深刻であろうとも、最終的に新たな統一に向かって進ん だ。歴史上、異なる時期に西域に存在した城郭諸国、行国、 封国、王国、汗国、王朝、属国や朝貢国などの形態を含む「国」は、漢代の西域 36 国だろうが宋代のカラ汗王 朝や高昌回鶻王国などだろうが、それとも元代のチャガ タイ(察合台)汗国、明代のヤルカンド(葉爾羌)汗国だろうが、すべて中国の領土内の地方政権の形式であり、 独立した国家ではない。たとえ地方割拠政権であったと しても、皆中国との濃厚な一体感を有し、あるいは自ら を中原政権の一部、または中原政権の臣下であると見なした。宋代の有名な歴史文献『突厥語大辞典』は当時の 中国を上秦、中秦と下秦といった三つの部分に分け、上 秦は北宋のことであり、中秦は遼王朝のことであり、下 秦はカシュガル(喀什噶爾)一帯のことであり、この三つの部分を合わせて完全な秦としている。『長春真人西 遊記』では漢人を桃花石と称し、呼応して『突厥語大辞 典』の見出し語では、回鶻人が塔特桃花石と称せられ、 また直接中国回鶻人と訳されたところもある。カラ汗王 朝の貨幣には常に「桃花石布格拉汗」、「秦之王」や「秦 与東方之王」などの呼称が刻まれ、それが中国の一部で あることを明示している。

人民中国インターネット版 2019929

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