新疆の歴史に関する幾つかの問題(三)

 

二、新疆はいまだかつて「東トルキスタン」であったことはない

突厥は 6 世紀の半ばにアルタイ(阿爾泰)山地区に興った遊牧民の集落であり、552 年に柔 然汗国を滅ぼし、突厥汗国を築いた。583 年、アルタイ山を境として、突 厥汗国は東西の二つの勢力に分かれた。630 年、唐王朝は出兵して東突厥汗国を打ち破った。657 年、唐王朝は回紇と共同で西突厥汗国を滅ぼし、中央政権は西域を完全に統一した。682 年、北方に置かれていた東突厥の兵卒が唐王朝を裏切り、一時的に後突厥汗国政権を建てた。

744 年、唐王朝は漠北(ゴビ砂漠の北、モンゴル国に当たる地域)の回紇やカルルク(葛邏祿)などと連携して後突厥汗国を平定した。回紇の首領クトルク ボイラ(骨力裴羅)は手柄を立てたため、懐仁可汗に封じられ、漠 北に回紇汗国を建てた。突厥は中国古代の遊牧民族の一 つであったが、汗国の滅亡につれ 8 世紀の中後期にば らばらになり、また中央アジアと西アジアへ移動する過 程で現地の部族と融合し、幾つかの新たな民族が形成さ れた。新たな民族と古代の突厥民族との間には本質的な違いがある。その後、突厥は中国北方で歴史の舞台から 退いた。

歴史上において中国はいまだかつて新疆を「東トルキ スタン」と呼んだことはなく、ましてやいわゆる「東ト ルキスタン国」は存在しない。18 世紀から 19 世紀の前半にかけて、西洋がアルタイ語族テュルク語派の各種の 言語に対して区分を行ったのにつれ、一部の国の学者と 作家たちは頻繁に「トルキスタン」という言葉を使い、 天山以南からアフガニスタンの北部までの地域を指し、ほぼ新疆南部から中央アジアまでの地域を含み、さらに 習慣的にパミール高原を境とし、この地理学的地域を「西 トルキスタン」と「東トルキスタン」に分けていた。19 世紀末から 20 世紀初めにかけて、「汎テュルク主義」と「汎イスラム主義」の思潮が新疆に伝わった後、国内外の分離主義勢力はこの地理学用語を政治概念にし、その 内包を拡大し、すべてのテュルク語派の言語を使う民族 やイスラム教を信奉する民族が連携して政教一致の「東 トルキスタン国」を打ち立てるとがやがや騒ぎ立てた。いわゆる「東トルキスタン」という論調は、国内外の民 族分離主義勢力と国外の反中国勢力が中国を分裂させ、 中国をばらばらにすることをたくらむ政治的な道具と行 動綱領となっている。

 

人民中国インターネット版 2019929

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