煬帝が切り開いた運河の都

 


 故人西辞黄鶴楼、煙花三月下揚州。

 孤帆遠影碧空尽、唯見長江天際流。
――古い友人が西方にある黄鶴楼に別れを告げ、春霞たなびき花が咲く三月に揚州へ下っていく。遠くに見える(友人が乗る)舟の帆影は青空のかなたに消え、あとは長江が天の果てまで流れていくのを見るだけだ。
 唐代の詩人李白の有名なこの七言絶句『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』は、中国では誰もがよく知る詩だ。この詩が世に出てから、揚州の一番美しい季節は旧暦の3月―新暦の4月か5月―だと認められた。
 江蘇省揚州市は古くは広陵と呼ばれ、長江下流の海の玄関口に位置し、京杭大運河が市内を南北に貫く。縦横無尽に延びる水路により揚州はその興隆を約束され、同時に「中国運河の第一都市」の美称も得た。

 

 

2500年超え流れる運河
 春秋時代の紀元前486年、当時、今の江蘇省浙江省一帯を統治していた呉王の夫差は、黄河の中下流域に当たる中原の覇権を争うため揚州の街を建設し、揚州から淮安までの水路を開削した。これが京杭大運河の最も初期に作られた河道だ。
 隋の煬帝は605年、本格的に大運河の開削を始めた。この開削事業は、中国の歴史上、秦の始皇帝による「万里の長城」建造にも匹敵する。皇帝に即位する前、楊広(煬帝の本名)は地方首長として揚州を11年管理していた。いくつかの歴史書は、楊広が揚州の素晴らしい風景に執着し、大量の人力物力財力を費やして揚州に通じる運河を建設したことで、最終的には隋王朝が短命に終わったことを生き生きと描写している。
 また、歴史学者の中には、煬帝が6年を費やして大運河を開削したのは、主に南方の政治の安定と経済の発展という二つの目的のためと考える者もいる。隋王朝の成立初期、北周に取って変わった隋の文帝(楊堅)は、軍事手段により東の北斉と南の陳朝を統一し、南北朝の270年に及ぶ分裂状態に終止符を打った。
 だが、征服された地域の東と南では反乱が起きることもあり、情勢は不安定だった。楊広は即位後、まず東の都洛陽を建設し、東部地域の政治の中心を築いた。それから大運河を開削して人工水路によって南北の交通を整備。軍隊の派遣という軍事問題を解決し、江蘇浙江一帯の支配力を強化した。それと同時に、江蘇浙江が代表する南方は、全国経済に占める割合が40%を超え、また発展の勢いも力強いことから、隋朝において成長が最も速い経済地域であった。洛陽を中心に、北は北京、南は杭州に至る大運河は南北を結び、商業や文化、人々の往来を大きく後押しした。
 揚州地域内で現存する古運河は、瓜洲から宝応までの全長125で、隋の煬帝が開いた運河と完全に一致している。このうち古運河の揚州市街区間は、瓜洲から湾頭まで全長約30で、有名な「揚州三湾」を形作っている。

 



開放的な国際都市
 唐朝が海のシルクロードを切り開いたのに伴い、地理的に優位な位置にあった揚州は発展の最盛期を迎える。米国の学者シェーファーは、唐代の対外交流を研究した著書『サマルカンドの金の桃』の中で、1000年前に帆船に乗り、かいを漕いで中国にやってきた外国人たちは、海のシルクロードを経由して彼らの心の目的地に到着した、と述べている。「ふつう観光客の多くはまず栄えている揚州に行く…(中略)…揚州は金や物が行き交い、人の流れが絶えない中産階級の都市だった。揚州はまた工業都市でもあった。精巧な金属製品(特に銅鏡)やフェルト帽、絹製品、刺しゅう、からむし布製品、甘しょ糖(4)、木造船、手の込んだ細工の木工家具などの特産品がよく知られていた」
 繁栄する揚州は対外文化交流の重要な窓口でもあり、その影響は1300年以上も続いた。文学では、江戸時代の戯作者曲亭馬琴(1767~1848年)は唐代の揚州の伝奇小説『南柯太守伝』に触発され、小説『三七全伝南柯夢』を書いた。音楽では、遣唐使の一人藤原貞敏(807~867年)は揚州琵琶の名手廉承武に琵琶を学んだ。廉は貞敏の才能を認め、自分の愛娘を嫁がせたほどだった。仏教では、揚州の鑑真和上が日本に渡り、法律医薬彫塑絵画書法建築などの盛唐文化を日本に伝え、中日両国友好の先駆けとなった。