塩豪商が育んだ庭園芸術

 揚州でもう一つ、明清時代に最盛期を迎えた代表的なものが庭園芸術である。

 明清時代、長江淮河一帯は製塩業で栄えた。江蘇の淮河以南と淮河以北の二つの大規模な製塩地域は、当時の中国で最も主要な海塩の生産地で、揚州がこの両淮地域の製塩業をまとめる中心地だった。巨万の富を得た塩商人たちは、中国の伝統文化と美学の粋を極めた私邸の庭園を次々に作り、洗練された優雅な生活を送った。統計によると、揚州城内の個人庭園は最盛期には200カ所以上に達したという。

 揚州に今も残る30カ所余りの個人庭園の中で、歴史が最も長く、保存が最も完全で、最も芸術的な価値が高いのが、揚州古城の北の角にある「个(個)園」だ。




 个園は、清代の八大塩商人の一人である黄至筠が明代の庭園「寿芝園」の跡地を拡張して建てたものだ。園主の黄氏は竹を愛し、竹のてっぺんの三つの竹の葉がちょうど「个(個)」の字の形をしていることから、「个園」と呼んだ。黄至筠は、約20年の時間と計600万両の銀貨を个園建設に費やした。この額は、当時の江蘇地域の1年分の財政収入に匹敵するほどだった。

 个園はさほど大きくはないが、あずまやや楼閣、家屋と庭園の調和、山水の組み合わせは、中国の伝統文化の神髄を余すところなく表している。

 この庭園で最も見る価値があるのは、園内の築山の石積み芸術だ。これは異なる石材を積み重ねて「春冬」の四景を作ったものだ。中国の庭園芸術の要諦は、人と自然の調和の取れた共生を追い求めることにある。「个園」の設計者は、四季の築山を庭園の中に置くことにより、そこで暮らす人がいつでも四つの美しい風景を味わえるようにした。このユニークな方法は、中国の伝統的な庭園では非常に珍しいものだ。




 揚州最大の庭園と言えば「痩西湖」に他ならない。「青山隠隠水迢迢、秋尽江南草未凋。二十四橋明月夜、玉人何処教吹笙」(緑の山は霞み水路は遠くへ続く、江南の秋は深まっても草はまだ枯れない。二十四橋の明月の夜、あなたはどこで笙を教えているのか)。唐代の詩人杜牧が詠んだ「二十四橋」はかつて痩西湖内にあった。




 痩西湖は、もともとは揚州の古い運河の河道の一つだった。ところが、長い間に湖の中心が土砂で埋まってしまったため、清朝の乾隆年間に現地の塩商人が資金を出し合って泥をさらい、東西の両岸に多くのあずまやや楼閣を建てた。




 塩商人が大金を惜しまず痩西湖を整備したのは、乾隆帝を迎えるためだったと伝えられている。乾隆帝は生涯で6度江南を訪ね、揚州には特別の思いがあった。現地の塩商人と役人は、当時の著名な造園家を招き、痩西湖の狭く長い湖面と曲がりくねった河道を利用して橋や島、堤防などに分け、限られた河道を無限の山水空間へと変えた。痩西湖は、一本の河道から一躍、唯一無二の湖水庭園となった。2014年に痩西湖は世界文化遺産に登録され、今では揚州の世界に向けた「名刺」となっている。