中日つないだ先賢の足跡

 


 痩西湖の北西門から遠くに九重の仏塔が見える。塔に向かって歩くこと15分。古寺大明寺にやって来た。

 大明寺は南宋の大明年間(457~464年)に建てられたことから名付けられた。601年、隋の文帝楊堅は自分の誕生日を祝うため、全国に30基余りの仏塔を建て、仏舎利を祭るよう命じた。大明寺にある九重の仏塔「栖霊塔」はその一つだ。唐の時代、鑑真がやって来て、同寺は仏教の聖地として名が知られるようになった。

 
 鑑真は生まれも育ちも揚州で、若い頃に出家した。その後、洛陽や長安で学んだ。鑑真は勤勉で、仏教以外にも建築や絵画を学び、とりわけ医学の分野は造詣が深かった。修行を終え揚州に戻った後、鑑真は40年余りにわたって揚州で仏法を教え、その授戒を受けた者は4万人余りに達したとされる。
 733年、鑑真は大明寺の住職となった。その年、日本から留学僧栄叡、普照が遣唐使の一員として、授戒を行える僧の招請にやって来た。
 すでに高名な僧だった鑑真に、栄叡と普照はすぐに引き付けられ、その名声を慕ってやって来たのだった。二人の度重なる熱心な日本への渡航の招請に、鑑真は742年、日本へ渡ることを決意。揚州から6度に及ぶ波瀾万丈の日本渡航の挑戦が始まった。

二つの国 二つの鑑真像  

 本堂に当たる大雄宝殿を抜けて北に向かうと、寺院の一番奥にある唐代様式の寄棟造りの建物が緑陰に映えていた。これは、中国の著名な建築家梁思成(1901~72年)が、奈良の唐招提寺金堂を参考に設計した鑑真記念堂だ。門前の庭の中央に立つのは、唐招提寺第81世長老(住職)の森本孝順氏から贈られた石灯籠で、唐招提寺にあるものと同じだ。記念堂内の中央に安置されているのは鑑真の坐像で、これは唐招提寺にある鑑真像を複製したもので、タブノキを用いて彫刻し乾漆造りで仕上げたものである。




 鑑真が日本で亡くなった後、日本では鑑真の乾漆木彫の坐像を作り、唐招提寺に祭って和上をしのんできた。1980年4月14日に鑑真和上坐像は初めて「里帰り」し、揚州の人々から心温まる歓迎を受けた。この坐像は鑑真記念堂に3日間安置された後、北京へ運ばれた。「里帰り」した23日間に50万人以上の人々が参拝に訪れた。

 鑑真坐像が「里帰り」を終えて日本に戻った後、記念堂はガランとしてしまった。中日両国は、鑑真像の複製を作る案の検討を始め、すばやく行動に移した。粘土像から石こうの複製を作り、乾漆の着色まで、揚州漆器工場を含むチームが3カ月余りをかけ、ついに複製像を完成させた。




 揚州の旧市街を歩くと、鑑真は単に歴史上の人物ではなく、揚州人の暮らしの隅々に「生きている」ことを感じた――鑑真図書館、鑑真広場など鑑真の名を取った建物が古い町に点在し、揚州のメインストリートの一つ「鑑真通り」の両側には桜が植樹され、通りの先には鑑真像が置かれている。

 「仏法を発揚し文化を普及するため、鑑真大師は無私の献身的精神で中日交流の懸け橋となりました。大師は『何も恐れない』精神の象徴であり、代々の揚州人を励ましています」。鑑真への地元の人々の気持ちについて、文峰寺慈善基金会の蕭楠さんはこう語った。