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良渚古城 4000年を遡る古代文明

 

夜が明けてまもなく、杭州市瓶窯鎮雉山村の村民、宮麗金さんは、いつもと同じように田んぼの間の道に沿って、養魚池に向かい、稚魚にエサをやり始めた。

10年前、宮さんの親戚が、宮さんの家からそう遠くない大観山と反山からたくさんの文物が見つかったので、養魚池にも宝物があるかもしれない、と宮さんに告げたことがある。当時の宮さんは、池の底には石しかないと、その話を気にも。

現在、宮麗金夫妻は毎日交代で北城壁を見張る

2007年、考古学に従事する人々が次々に家の前を行ったり来たりし始め、静かな小村は突然、騒がしくなった。それからまもなく、宮さんの毎日には、養魚池の管理のほかに、新たな仕事が増えた―それは古城壁の見張りである。考古学の研究者が彼女の家の養魚池の周辺から4000年前の古城壁の一部を掘り出したからだ。考古学者は、池の底の石は、城壁の一部だという。

古城壁の驚くべき発見

2006年6月、杭州市良渚遺跡管理委員会は、莫角山の西側の葡萄畈に仮設住宅を置くことにした。なぜなら葡萄畈の地は、良渚遺跡の所轄範囲内にあり、予備調査には欠かせない場所だったからである。

北面の城壁の一部を測量する浙江省考古研究所の郭氏。城壁を保護するため、考古学者による測量の結果を待ち、一部の復元作業が行われると伝えられる

浙江省考古学隊の郭さんによれば、彼らは、まず、田んぼの下に南北に走る幅約40メートルの溝を発見している。溝のなかには、多くの陶片もあった。

その後、考古隊のスタッフが発掘作業を続けた結果、溝の横に広がる土地は、人工的なものだと判明した。その土は黄土であり、良渚一帯の灰黒色の土とは違い、明らかに人工的に運搬されたものである。黄土の下の石は滑らかであり、加工の跡をはっきりと残す。

あるスタッフは、これを河の堤などの水利工事の類であると推測した。また別のスタッフは、溝の東側200メートルに、良渚文化の中心である莫角山遺跡があるところから、城壁である可能性を指摘した。のちの発掘によって、後者の推測が証明され、黄土は、良渚古城の西城壁であり、田んぼの下の溝は城を守る堀だった。

のちにスタッフは、北面の城壁を発見したが、東面の城壁を見つけるのには、一年の時間を費やした。

「なかなか見つからず、どこにあるのか本当に迷わされた」と郭さんは、言う。2007年10月、考古隊の技術スタッフが、莫角山の東北に位置する馬金口付近で石と成熟土を探していた時、すべての人々が興奮する発見があった。それは良渚古城の東城壁で、この発見により、地固めの跡が堤である可能性は、退けられた。11月上旬には、南面の城壁も発見された。

良渚古城壁遺跡の大部分は、田んぼのなかに深く埋まっていた
劉斌・浙江省考古研究所研究員は、良渚古城の城壁は、幅40~60メートル、東西の長さは、1500~1700メートル、南北の長さは、1800~1900メートル、面積は290万平方メートルである。北面の城壁は、出土した城壁のなかで、もっとも完全に残る部分であり、高さ4メートルである。城壁の底は石であり、上にはつき固められた、非常に粘性のある黄土が積まれている。城壁の遺跡のなかから見つかった陶片から推測すると、この古城は、少なくても良渚文化の後期、すなわち約4000年以前である。

良渚古城の南面と北面は、天目山脈の支脈であり、南北の城壁と山との距離はおおよそ同じである。東苕渓と良渚支流がそれぞれ南北城壁の両側を東に向って流れ、鳳山と雉山が城壁の西南角と東北角にそれぞれ位置する。良渚古城の位置は、精密な選択の過程を経たものである。地理的位置と、建築の状況から分析すると、良渚古城は、外敵の侵入を防ぐ機能以外に、洪水を防ぐ重要な役割をも担っていた可能性がある。考古学上の資料には、東☆渓の洪水の記録がある。

劉斌氏によれば、良渚古城の外側には、さらに未発見の城壁が存在する可能性がある。古城から2キロ、地元の人達が塘山、と呼ぶ場所がある。考古学チームは、ここに巨大な土壁を発見しており、その構造が良渚古城壁と似ていることから、古城壁である可能性を残している。つまり、良渚古城に二重の城壁があった可能性であるが、この点については、さらなる考証を待つ必要がある。

現在、良渚古城は、多くの謎に包まれている。城壁が現れた今、城門はどこにあるのか?道路はどのように敷設されていたのか?4000年前の良渚の人々は、陶器の上に特殊な符号を刻んでおり、それは何を意味するのか?

良渚文化

良渚文化遺跡から出土した多くの器の上には獣面の神人の模様が刻まれ、それは考古学者の推測では、トーテムとされる
良渚文化は、太湖地区に位置する今から5300~4000年前の紀元前の文化であり、1936年、考古学者の施昕更より浙江省良渚鎮において発見されたため、この名称で呼ばれている。その後の発見、考証により、良渚文化の最も核となる位置は、莫角山とされ、その外周はすべて良渚文化遺跡群である。

1977年、中国考古学の泰斗、蘇秉琦は、研究のために瓶窯鎮を訪れている。莫角山の山頂の大観山果樹園で、彼はこの地が古代の杭州であると大胆な推説をたてた。

1992年、蘇秉琦の予言は現実となり、浙江省考古研究所は大観山の果樹園で漢代の墓を発見した。そして、墓の下には良渚遺跡があった。趙曄研究員は、「まず砂の層があり、その下に非常に厚い、精巧につき固められた土の層があり、その下に砂の層、さらに泥があり、明らかに人工的に築かれた高台で、総面積は3万平方メートルだった」と言う。

趙研究員によれば、それは古城の王宮であった可能性が高い。「これほどの体積の台、これほど精巧につき固められた土、これほどの直径の柱穴からして、非常に位の高い貴族のものであったと推察される。これほどの大規模な建設工事には、おそらく1000人余りの力でも10年はかかり、良渚遺跡にこれまでなかったものである」と趙研究員は言う。

「玉琮」は良渚文化の墓地遺跡から出土した典型的な儀式用の道具である。考古学者によれば、「玉琮」は、巫師が天地を祭る際に使うものである
莫角山遺跡は、1992年の中国の10大考古発見に選ばれ、太湖流域において数多く発見されている分散した遺跡群は、それを中心として組織された総体である。

莫角山遺跡より一年前に発見された反山遺跡は、良渚古城の西北角にあたり、11の良渚大墓から、「玉琮王」「玉鉞王」などを含む千以上にものぼる玉器が発見されている。埋葬の様式の格の高さからして、墓の主は、少なくても諸侯であったと推察される。

良渚古城の城壁の発見により、これらの王宮、墓葬など、過去の考古学上の発見は総体となり、「国」の形が浮かんでくる。著名な考古学者、厳文明氏は、「中国古代国家は多くが一つ一つの都城であり、それが当時は“国”と呼ばれていた。国という字には“枠”があり、それがつまり城である。つまり、城壁の有無は、氏族社会と早期文明社会を隔てる重要な印である。良渚古城の建設工程は壮大であり、大規模な組織による長期にわたる大量の労働力によって可能なものであり、その背後には、より良い社会の協調と、支配機構による支えとコントロールが明らかに存在する」と厳氏は語る。厳氏の推測によれば、当時の良渚文化には、政権が存在する。

現実の保護

瓶窯鎮の田んぼの間を歩くと、黄金に実りの稲田、魚のあふれる池、一軒一軒つらなる家々は、江南の水郷の風景そのものである。この地は、4000年前の良渚の人々の暮らしを想像させる。

今日、この土地の上で人々は昔と変わらず耕作をし、生活を営み、古城の保護は、一つの懸念となっている。

良渚遺跡管理委員会の責任者によれば、1995年以来、良渚文化保護区では、大型建設プロジェクトは停止されている。1996年、莫角山の遺跡内にあった印刷工場が移転第一号となった。2007年末には、莫角山遺跡上の大観山果樹園の職員129戸も瓶窯鎮内に引っ越している。

遺跡の北側の天目山脈には、質の高い石材が埋蔵され、90年代前後は、採石場が盛んに開かれている。文物遺跡の保護のため、2000年10月、瑶山遺跡付近の6軒の採石場がまず停止し、2002年10月には、遺跡付近の最後の石材工場が停止となっている。このほか、大量の交通量が遺跡に与える影響を解決するため、浙江省では、良渚遺跡の南に国道を迂回させている。

現在、良渚城壁の発見により、良渚遺跡の重要性は次第に認められ、すでに出土した城壁とまだ地下に眠る大量の遺跡をどのように守るかは、考えるべき課題となっている。(文=陳颷 写真=段崴)

 

人民中国インターネット版 2009年2月12日

 

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