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芯材をはずす技法で発展 福州脱胎漆器

 

寺の扁額からヒント

優れた工芸品の脱胎漆器(芯材を持たない漆器)、油紙傘(いわゆる唐傘)、牛角梳(牛の角で作られた櫛)は福州の「三つの宝」とされる。このうち最も有名なのが脱胎漆器で、揚州漆器、北京漆器と並んで中国三大漆器に数えられる。200年以上の歴史を持ち、その技術は清の乾隆年間(1736~1795年)に漆器職人の沈紹安が発明したと言われる。

型に麻布を漆で貼りつける

素手で磨いていく

最後に表面に図案を描く

福州の漆器づくりは南宋(1127~1279年)時代に始まり、清代には非常に盛んになっていた。沈紹安は漆塗りを生業とし、漆の箸や碗などの小物販売もしていた。しかし当時は漆器店同士の競争が激しく、商売は不安定だった。店の商売がかんばしくない時には、彼は金持ちの家や寺廟に出向いて漆塗りをしていた。ある時、寺で仕事をしている時に山門に掲げられた扁額を目にした。それは木で作られたものですでに朽ちていたが、しかし漆や灰、麻布で表装された部分はまったくいたんでいなかった。沈はこれを見てヒントを得て、家に帰ると額をまねて粘土で型を作り、表面に麻布を張り付けて漆で塗り固め、漆が乾いた後に型をはずしてさらに漆を塗って彩色する方法を試した。試行錯誤を繰り返した末にようやく漆器は完成し、彼は福州脱胎漆器の開祖となったのだった。

彼が開発した脱胎漆器の技法は、沈家に代々伝えられた。5代目の子孫にあたる沈正鎬、沈正恂兄弟は金粉や銀粉をニカワ液で練った顔料を漆液に混ぜ、既存の赤、黒、朱、紫に加え、金、銀、空色、緑、銅色などの新しい色を開発した。

脱胎の技法で作られた漆器は美しく、軽くて丈夫で水に浸しても変形したり退色することがない。アヘン戦争後に福州が開港させられると、通商の拡大に従って脱胎漆器の輸出も急増した。そして伝統的な製品以外に、外国人のニーズに応える形で喫煙具、酒器、コーヒー・セットや洋風なデザインの花瓶も作られるようになった。当時のこんなエピソードが残っている。ある英国商人が脱胎漆器の大型花瓶を購入して帰国の途中、船が沈没してしまった。助かったその商人は、3年後にサルベージ会社に花瓶を引き上げさせたが、なんと花瓶はまったく無傷でまばゆいばかりに輝いていたという。1898年、前述の沈正鎬、沈正恂兄弟はパリ万国博覧会に脱胎漆器を出展し金賞を受賞、福州の漆器はこれから国際的に知られるようになった。

困難を乗り越えて伝承

新中国成立後、福州市には国営第一脱胎漆器製作所、同第二脱胎漆器製作所が設立されたほか、福州工芸技術研究所と福州工芸美術学校が創立され、伝統工芸の発展と革新を推進した。ところが、1990年代になると漆器販売は不振に陥った。製作所は相次いで閉鎖となり、多くの職工は転業を余儀なくされ、技能の伝承も困難に直面した。

文化部(日本の省に相当)が指定する高級工芸美術師で、60歳を過ぎたばかりの劉友沢氏は、もともとは第二脱胎漆器製作所の工芸師だった。19歳で見習い工になった彼は、脱胎漆器製作の各工程に極めてよく通じている。「脱胎漆器製作には少なくとも数十の工程があります。まず粘土や石膏などで型を作り、麻布と漆を張り重ね、乾燥成形後に中身の型を取りはずし、さらに上漆を塗って磨きをかけ、絵や模様を施して完成です。現在の工芸美術学校を出た若者は絵や装飾ばかりをしたがります。型作りや磨きなどの基礎的な伝統工芸は汚くて疲れるので、苦学したいという若者は少ないのです」

名工の劉氏は家族で「沢雲閣」という脱胎漆器工房を営んでいる。第二脱胎漆器製作所が閉鎖され、多くの職工仲間が転職して散り散りになったが、劉氏は漆器製作を続けこの技術を守ってきた。彼は、脱胎漆器という伝統工芸には実は明るい光が見え始めていると考えている。人々の生活の質の高まりに伴って、家具やインテリアはこれからの成長が大いに期待できる分野になっている中で、脱胎漆器の持つ優れた芸術性や品位は他のインテリアには代替できないものだからだ。また、現在では国家が工芸師と工芸学校が連携して若い技能者育成に力を入れている。劉氏はより多くの若者が学習に専念し、真に伝統工芸を継承していってほしいと願っている。

 

人民中国インターネット版 2014年2月

 

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