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通りに残る租界の記憶

 

上流社会のニーズに対応

 

五大道の睦南道にある睦南楼(写真・単濤) 

天津で五大道の名を知らない人はいないはずだ。五大道を歩けば、異なる風格を持って建ち並ぶ大小さまざまな洋館に興味を持つだろう。華麗で異国情緒漂うこれらの建物の所有者は誰だったのか? 彼らはどのように暮らしていたのか? どんな物語があったのか? ぜいたくの限りを尽くした上海租界とは異なり、これらの洋館は神秘的な色合いを帯び、周囲と隔絶したムードが漂っている。  

重慶道と常徳道、睦南道、大理道、馬場道を中心としたエリアを五大道と呼ぶ。史料の記載によれば、これらの地域はもともと沼沢地で、天津開港後に英国租界当局が道路と建物の整備を始め、住宅エリアを開いた。中華民国時代、五大道地域は富裕層の居住区になり、清朝の遺臣や皇族、北洋軍閥の要人、社会的な著名人が公館や住宅を建てた。また「国の中の国」だった租界の性質を背景として、政治に携わっていた人物の避難所にもなった。

現在の五大道には英国やフランス、イタリア、ドイツ、スペインなどの建築スタイルを持つ1920~30年代の洋館が数百軒残されており、古典主義やルネサンス式、バロック式、中・欧折衷などさまざまな風格を見せている。当初の住人の多くは華人だったため、洋館の中にも四合院と中国式庭園建築の痕跡が見られる。五大道の古い家の建材はそれぞれ異なっており、西洋建築によく使われる石材や人造石などもあれば、れんがや瓦、木などの伝統的な中国の建材もある。色は灰色や褐色が多く、自然で素朴な味わいを醸し出している。

天津の歴史的建築保護分野の専門家や研究者によると、五大道地区の長方形の道路網は天津のほかのブロックとは異なり、20世紀初頭の西洋的な都市計画思想を体現している。当時の高級住宅地として、この周辺には学校や病院、公園、教会、競技場も建てられた。閑静でプライバシーを保てる居住環境に完全なインフラのセットが加わり、当時の上流社会の生活需要を満たしていた。  

五大道の特色ある建築物や著名人の旧居は現在、政府機関や企業、学校、幼稚園の所在地になったり、レストランなどの商業施設になったりしている。中には今も普通の人々が住んでいる建物もある。五大道で暮らし働く人々はすでに観光客に慣れている。彼らは観光客が建物の前で写真を撮るのを妨げないだけではなく、時には古い建物の歴史やかつて住民だった高官などについて親切に紹介している。

 

 

買弁が競った金融街

 

中国銀行天津支店の内部は香港上海銀行時代の内装が基本的に残されている

解放北路(旧称中街)はかつて英国とフランスの租界を貫いていた大通りだ。当時、フランス人は大フランス通り、英国人はビクトリア・ロードと呼んでいた。この全長2229㍍の通りには当時、内外の銀行や外国商社、商店が60以上集まっていた。ここの建築物は五大道の小さな洋館とは対照的で、広いとはいえない通りの両側にゴート式やローマ式、ゲルマン式の巨大建築が建ち並ぶ。1882年に英国の香港上海銀行がまず支店を開設し、中国・フランス・ロシアの華俄道勝銀行(ルソ・アジア銀行)、英国のチャータード銀行、日本の横浜正金銀行、中国・フランスの中仏工商銀行などが後に続いた。外資系金融機関が集まったことから「天津のウォール街」の称号も得た。

香港上海銀行の進出は当時、天津の外国為替業務を切り開き、天津の金融業は国際社会とつながり始めた。当時、天津の香港上海銀行で買弁を務めていた安徽省出身の呉調卿(1850~1928年)は、直隷総督(北京周辺を統括する地方長官)の李鴻章と同郷だったことを頼りに、初期の鉄道敷設に融資する権利を同行が得るのを手助けした。これにより天津の洋務運動の資金不足はある程度解消されたが、清政府は関税と塩税の徴収権を香港上海銀行に譲り渡すことを強いられた。  

元チャータード銀行ビルの回転ドア。  現在は郵便局となっている 

英国のジャーディン・マセソン商会は最も早い時期に天津に進出した外国の商社だ。現在の解放北路には、1921年に同社が建てたグレーの古典主義建築が依然そびえている。買弁の梁炎卿(1852~1938年)は当時の天津で知らない者のいない伝奇的な人物だ。彼は20歳で同社の実習生になり、60年余り勤めた。米国は大陸横断鉄道の敷設後、ヒツジの優れた毛皮で豪華な車両を飾り立てる必要があった。梁炎卿はここで商機をつかみ、自らパオトウ(内蒙古自治区包頭市)に出向き、ヒツジの毛皮の輸出事業を始めた。数年のうちにパオトウは天津の西北における畜産品集散地、貿易の要衝になり、「毛皮が動けばさまざまな職業が興る」という言葉まで生まれた。梁炎卿の開いたこの貿易ルートは当時の天津の主要な商品輸出ルートになった。1930年の「天津税関貿易報告」には、天津の畜産品輸出量は全国の60%以上だと書かれている。  

ジャーディン・マセソン商会が天津に足場を築いてから14年後、競争相手のスワイヤ商会(太古洋行)も天津の金融街に進出した。当時、海河は狭く、密集した大型外国商船は身動きが取れなかったため、スワイヤ商会の若い従業員・鄭翼之(1861~1921年)ははしけを使うよう提案した。はしけは海河を自由に往来し、スワイヤ商会の輸送能力を大幅に高めた。スワイヤ商会は輸送面での優位性を生かし、華北地方の白砂糖貿易でジャーディン・マセソン商会に勝利を収め、後に世界的に有名な「taikoo」ブランドを築いた。かつて梁炎卿を人生の目標としていた鄭翼之もその後、天津でスワイヤ商会の買弁になった。

 

 

人民中国インターネット版 2015年5月25日

 

 

 

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