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映画『おくりびと』監督 滝田洋二郎氏に聞く

 

聞き手=王衆一

4月16日から23日まで第6回北京国際映画祭が開催された。この時期には4年ぶりに北京・日本映画週間が開催され大成功を収めた。今回の北京国際映画祭では『おくりびと』の監督として知られる滝田洋二郎氏が審査員を務めた。もし、20世紀に『君よ憤怒の河を渉れ』が中国の数億人の観客に戦後日本の全く新たな認識をもたらしたとすれば、『おくりびと』は疑いなく21世紀にそれと同じ効果をもたらした日本映画だ。映画祭期間中に同監督は多忙なスケジュールをぬってわざわざ本社を訪問し、王衆一総編集長による独占インタビューが実現した。

 

 

 滝田洋二郎監督(写真・陳克/人民中国)

 

 

パラレルワールドで中国映画に触れる

――どのような経緯で映画界に入り監督になられたのですか?

滝田洋二郎監督(以下、滝田) 僕は専門に映画を学んだ者ではないんですね。運が良く、偶然の機会に映画関係の人と知り合ったことで映画界に入りました。実は日本には映画を専門に学べる学校が圧倒的に少ないのです。そうした学校があったとしても、僕はそこで何が学べるのか懐疑的ですが。映画界に入り、現場で少しずつ学び始めました。昔の言葉で言うと修業です。1976年に映画界に入り、10年ピンク映画を撮りました。ご存じのように、当時フィルムの映画はすでに下り坂になっていて、古い世代の監督はまだ名声によって前衛的なスタイルの実験的映画を撮影できましたが、僕のようなデビュー間もない若い監督は最も基礎から身を起こす必要がありました。幸いなことにこの10年で人間が鍛えられ、多くの人間的な基本を理解しました。86年になってようやく一般映画を撮ることができましたが、今の映画界には全く経験のない人間を最初から雇う余力はさらにありません。この点で、中国と日本は全く異なります。北京電影学院では専門の人材を養成しており、卒業後は容易に正規のルートに乗れるのではないでしょうか。でも、現場から始めて実践の道を進むことにもいい面はあります。例えば加藤正人さん、若松孝二さんもそうですし、『Shall we ダンス?』という素晴らしい作品を撮った周防正行監督もいます。これらの人はみな専門の学校を出ていません。ある人は大学で映画研究クラブに所属していました。ある人は直接映画製作所の第一線の現場に入りました。ある人は完全にフリーランスの立場で映画製作のチャンスを探りました。そのように情熱をもってその世界へ飛び込むことは、実はとても重要なことで、僕も今でもその情熱をなくさないでいたいと思っています。

――中国映画界との接触は多いのですか?

 滝田 初めて中国に来たのは香港映画金像賞の授賞式でした。確か2010年だったと思います。その年に『おくりびと』が最優秀アジア映画賞をいただいたのです。その後、上海国際映画祭に審査員として招かれました。一昨年は北京電影学院の卒業制作の審査委員長として招かれ、いくらか友人もできました。そして、今年北京国際映画祭の審査員としてまた北京に来ました。この間にさらに一度中国に来ており、合計すると5回中国に来ています。

 ――これまで中国映画とどのような関わりがありましたか?

 滝田 先ほど申し上げましたが、僕がデビューした当時、上の世代はまだ実験映画を撮影することができましたが、若者はこうした機会がすでにほとんどなく、助監督の時代、僕は活力に満ちた中国映画をうらやましく感じていました。一部の第五世代監督の作品を見たことがありますが、強い印象を持ちました。第五世代の映画が伝える情報は中国に起こった変化を理解させます。僕に最も早く新鮮な中国についての印象を与えたのはこれらの映画でした。例えば『黄色い大地』『紅いコーリャン』『古井戸』などはみなその時期に見ましたが、これらの作品は知らず知らずのうちに僕に影響を与えました。強い精神、充満する生命力、人類の普遍的感情の物語が、彼らの作品の中に登場していました。ただ、現実の中国に触れるようになったのは5年ほどのことです。中国は完全に現代化しており、北京は東京とほとんど変わりありません。

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