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運河が育んだ楊柳青年画

 

衰退からの復活

楊柳青鎮は京杭大運河のほとりに位置する

天津中心部から車で40分。西青区にある楊柳青鎮は楊柳青年画の誕生の地だ。商業施設が立ち並ぶ近代的な様子は都市となんら変わりがない。明・清時代のデザインを模した建物が連なり、子どもが鯉を抱えた大きな金色の像がある御河橋周辺の風景は、楊柳青年画のかつての輝きを思い起こさせる。目の前に広がる水の流れは、世界最長の人工運河と言われる京杭大運河だ。楊柳青年画の歴史はこの大運河と密接なつながりがある。明・清時代、楊柳青鎮は運河輸送の要衝として、北方の商業貿易の流通と文化交流の集散地となり、商業が栄えた。運河で運ばれてくる南方の良質な紙や顔料と、同鎮周辺で産出する彫刻に適した梨の木という好条件の下で、年画と年画工房が盛んになった。

王文達さんが楊柳青画社で学んだ頃、最初の半年は楊柳青鎮で過ごしたという。王さんの記憶では、60年代の楊柳青鎮は現在のように繁華ではなく、まだ古鎮の風情があり、アスファルトの道はなく、どこも土がむきだしだった。古い運河のほとりには樹木が茂り、多くの人々が住んでいて、みんな運河の水を利用していた。鎮で年画創作に従事する人はあまり多くなく、主に販売を行なっていた。師匠たちの話から知ったのは、清の乾隆年間(1736~95年)と嘉慶年間(1796~1820年)に楊柳青年画は最盛期を迎えたということ。当時、楊柳青鎮と周辺の数十カ所の村々では、ほぼ全ての家が年画制作に携わり、農閑期にランプをともして絵を描いていたため、「家々が彩色をよくし、戸々が絵画に長じる」と言われた。年画制作は当地の庶民にとって生活の手段であり、楊柳青鎮は中国木版年画の重要な産地の一つとまでなった。

『連生貴子』(清代、46.5×46.5cm)中国語で「蓮」と「連」、「笙」と「生」、「桂」と「貴」はそれぞれ発音が同じ。図案の子どもは右手に笙、左手に蓮の花托を持ち、周囲に蓮の葉と桂花(モクセイ)が配されており、たくさんの子どもと幸福が訪れるという「連生貴子」の意味を表している

『明朝八秩栄慶代八宝中堂』

(明代、236×123.5cm)(写真提供・天津楊柳青木版年画博物館、以下同じ)

南方と北方の文化が運河によって楊柳青鎮で交わったことにより、楊柳青年画は南方の繊細さと北方の豪快さを兼ね備えるようになった。地理的に北京に近いため、多くの絵師が宮廷画家となり、宋代の院体画(花鳥や山水、宮廷生活を題材とし、外見・内面共に真に迫ることを重視し、華麗かつ繊細な風格を持つ)の影響を受けた。楊柳青鎮に戻ってきた彼らは院体画の緻密な画風を年画にもたらし、色彩の豊富な細密画の特徴を受け継いだ。さらに一部の工房では年画の芸術的レベルを高めるため、著名な画家を招いて図案の作成を依頼した。人物や草花に定評のある上海の画家、銭慧安氏(1833~1911年)もその中の一人だ。当時とても評判の高かった斉健隆画店の招きを受けて、銭氏は運河沿いに北上して楊柳青鎮までやってきた。そこで民間芸術の要素を取り入れ、年画の図案を作成した。できあがった作品は高尚かつ純朴で、通俗的でありながら上品という生活の息吹を色濃く備えたものだった。

近代に至り、新しい印刷技術の後押しの下、出来上がりがきれいで価格も安い石版印刷の年画が出回ると、楊柳青年画は打撃を受けた。さらに戦争などの原因が重なり、楊柳青年画は苦境にあえぎ、消滅寸前となった。同画社の周副書記によると、新中国成立後、天津市は大量の人的・物的資源を投入し、楊柳青年画の再発見・保護・整理を始めたという。1953年、天津市文化局は経験豊かな職人たちを組織し、「楊柳青年画生産チーム」を立ち上げて年画制作の回復を図った。同時に、天津周辺の楊柳青鎮や静海県、大口屯鎮などを駆け回って民間に散逸した版木を収集した。当時、庶民の間では保護の意識が低く、中にはかめのふたや鶏小屋の屋根、洗濯板として使われている版木もあって、傷みが相当激しかった。最終的に収集された版木は、明末清初のものを主として6400枚余りに上り、番号をつけて整理・修復された。58年の楊柳青画社設立に伴い、これらの版木はここに収蔵・保管されることになった。2006年、楊柳青木版年画は中国最初の国家級無形文化遺産リストに登録され、改めて輝かしい光を放ち始めた。

 

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