1965年4月、北京外国語学院(現在の北京外国語大学)を卒業した私は、外交部翻訳処(現在の翻訳司)英文チームに入った。
すべての新人と同じように、まずタイピングの仕方と各種の字典の使い方を学んだ。夜中の仕事は、まず若い人に回ってきた。深夜の静まり返ったオフィスで緊急の文書を翻訳していると、私の心には一種の神聖感が湧きあがり、自分が祖国の心臓とともに拍動しているように感じた。
後に外交部声明、政府声明、指導者の演説の翻訳に関わるようになり、それが一段落あるいは数段落だけの初稿の翻訳で、かつ緊急を要するものであっても、必ず人名・地名・固有名詞などを正確に調べ、誤りがあってはいけないという初稿に対する明確な要求があった。初稿を検討・訂正した後には、その訂正箇所を真剣に研究し、常にレベルアップを図らねばならなかった。なぜなら、われわれは国のために言葉を紡いでいるからだ。
さらにその後、私は毛主席や周総理といった指導者の通訳を務める機会があった。彼らの外国のお客様と話す時の、筋を通して人を納得させる言葉の中に、そして、慎み深く人民のために献身的に尽くすという風格の中に、私は責任の重大さをいっそう感じた。
1970年12月18日早朝、毛主席は風邪で発熱した直後だったため、米国の作家エドガー・スノーを彼の住まいに招き、午前8時から午後1時過ぎまで5時間余りにもわたって話し込んだ。その中で中国と米国との関係について話が及んだ時、「ニクソン大統領は早くからあちこちに手紙を書き、代表を送らねばと言っていたそうだが、ニクソン大統領が来たいと言うならば、私は彼と話してみたい。交渉が成立しても、成立しなくてもいい」と言った。
1972年2月21日正午、米国のニクソン大統領が首都空港に到着し、中国を訪問した。午後2時40分から3時50分、毛主席は大病によるショックから間もないため、中南海の住まいでニクソン大統領と会見し、周総理とキッシンジャーも同席した。15分の予定だった会見は70分間にまで延長された。話をしている時、主席の顔は紅潮し艶やかで、話に花が咲き、言葉も鋭かったが、終わった後、すぐさま顔が青白くなり、すぐに酸素吸入が必要となった。その後、周総理とニクソン大統領は北京で5回の会談を行い、その会談後にはいつも、総理は一人で主席のもとに行って報告と相談を行った。「毛主席とニクソン大統領は一度会見しただけだが、周総理とニクソン大統領の会談すべてに参加しているに等しかった」とキッシンジャーは語っている。
1974年5月28~6月2日、マレーシアのラザク首相が訪中した。彼は当時ASEAN5カ国のうち、中国と国交樹立について話しにやって来た初めての首相だった。その時、周総理の病はすでに重かったが、彼は自ら国交樹立交渉をやり遂げた。最後の一回の会談の時、総理付きの医師が、私の席の傍のテーブルの下に押しボタンを設置し、「もし総理の顔色が青白くなったり、汗をかいたりしていたら、すぐにこのベルを押してくれ、医療関係者がすぐに手当てに来るから」と言った。幸い、その日はそういったことは起きなかったが、後に思い返してみても、とても危険だったと思う。5月31日に国交樹立声明にサインした後、総理は外交部の関係者を近くの小部屋に呼び、これからの仕事について細かに引き継ぎをおこなった。その後、われわれに、「私は今から入院する」と言った。それが、総理が人民大会堂において外国の賓客に会見した最後だったということを、その時われわれはまだ意識していなかった。
その時、主席と総理はどちらも高齢で病を患っていたが、国際環境を有利なものにするべく精魂を傾けていた。彼らは自らの命と引き換えに、新中国の外交事業の素晴らしい歴史をつくりあげたと言えよう。
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