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偉大な精神は永遠に不滅———土井たか子さんを偲んで

 

 

1993年、日本政界で38年にわたって政権を握ってきた自民党が覆り、社会党を主とする7政党と1会派による連立政権が樹立されるという「大地震」が発生した。選挙の勝利を確保するため、連立与党は土井たか子さんを衆議院議長に押すことで一致した。彼女が憲政史上最初の女性党首、最初の女性議長という二つの最初を作ったと日本のメディアはコメントした。

議長就任後、彼女の仕事は一層忙しくなった。当時日本の政治情勢は大変複雑で、各政党間の駆け引きも白熱した。1年未満の間に、細川内閣と羽田内閣が相次いで崩壊したのに続いて、社会党がこれまでのマニフェストと政策を大幅に修正し、長く対立してきた政治のライバル―自民党と手を組んで連立政権を発足させた。これを背景に、土井さんは衆議院議長として、国会の運営に予想外に多くの難題にぶつかった。

戦後50年に当たる1995年、歴史に「終止符を打つ」という日本側の決意を表すため、6月に衆議院は「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を採択した。しかし内容が日本の侵略の歴史を直視せず、表現も曖昧だったため、決議は国際社会並びに国内世論から「小細工を弄する」と揶揄され、広く批判された。この決議が、衆議院でぎりぎり可決されたことを受けて、反対派は議会運営のあり方に対して土井議長不信任決議案を提出した。最終的に否決されたが、この件から議会内部の駆け引きの複雑さがうかがえる。

1996年、筆者は立教大学で客員として研究に従事することになったため、日本政界の友人との交流は前より便利になった。この間、土井さんとも何回も会う機会があり、彼女は筆者の仕事や生活状況についてを熱心に聞いていただき、質問に丁寧に答えていただくなど、古い友人のように接してくれた。日本研究所副所長に就任して、ある程度研究成果を収めたという私のキャリアに関する情報を聞いた彼女は、「頑張ってね!日本をしっかり研究して、日中交流ためにいい仕事をしてね」と何回も私を励ましてくださった。ランチタイムになると、彼女は筆者を議事堂の中にあるレストランに招待し、食事をしながら話し合う機会も作ってくれた。彼女は何度も中国を訪れ、何度も鄧小平氏ら指導者と会い、中国各地を訪れた。近年の北京の変化は彼女に深い印象を与えた。彼女はまた次のように指摘した。日本経済の高度成長期にはいくつかの問題が相次いで現れた。これらの問題は中国側にとって参考に値する問題だ。話し合いながら、彼女は公的な場やテレビで見る彼女と違って、さらに庶民的で、いつも笑顔を絶やさないことに気付いた。

筆者には忘れられないことがもう一つある。彼女と議事堂で会う約束をしていたが、時間通りにつくと、担当秘書が「本当に申し訳ございません。議長は急に重要会議に出席しなければならなくなりましたので、魯さんと会えなくなりました」と言った。これを聞いて、良い交流のチャンスを逃したと思って、がっかりした。すると秘書がまた、「議長は魯さんに別のスケジュールを用意しました。もし興味がおありでしたら、スタッフが議事堂をご案内します」と申し出た。正直に言うと、議事堂はそれまでに何度か見学したことがあった。議員の友人と会うたびに、時間があれば、スタッフに案内してもらった。議事堂は筆者にとってすでに興味を持つ所ではなくなっていた。しかし今日は、議長の都合がつかないのだから、無駄にしたくないと思い、ここに残ってもう一度見学しようと決意した。

案内してくれたのは背が高くて、たくましい体にぱりっとした制服を着ている中年の男性だった。彼は衆議院の衛視班長で、議長の依頼で、筆者を案内してくれた。歩きながら彼の案内に耳を傾けた。歴史の知識もあれば現場ての説明もあり、一般常識もあれば珍しいエピソードもあった。彼は真剣に事前準備をし、筆者のような外国人でも聞き取りやすいように、ゆっくりしたスピードで説明してくれた。当時、国会が閉会中だったため、議場や委員会室は閉まっていた。しかし、彼が特別にドアを開けて、内部も見学させてくれた。今までと比べると、今回の見学はとりわけ入念で、日本の国会とその運営に対する理解がさらに深くなった。今、学生に日本の国会に関する知識を教えるたびに、この時の見学の様子を自然に思い出される。私は心から土井議長のきめ細かい配慮と中国人学者に対する関心や思いやりに感謝している。

 

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