筆者が最期に土井さんにお会いしたのは2002年だった。その年12月、訪日しある学会に参加した。会議の後、彼女を訪ねたいと思い、いつものように彼女の事務所で会うアポを取った。
1996年9月、衆議院が解散され、総選挙が行われた。彼女は衆院議長退任後、党内の推挙によって党首に就任し、連日多忙だった。筆者が到着すると、秘書が彼女は会議に出席しており、少し遅れると告げた。秘書と世間話をしながら事務所の中を見回した。彼女の事務所は簡素で整っており、目立つ位置に日本画が一枚飾られ、本棚の上には大きなパンダのぬいぐるみが置かれていた。パンダは天真爛漫でかわいらしく、見た人は思わず頬をほころばせてしまう。土井さんの好みと趣味をよく現している。
およそ30分してから、彼女があわただしく帰ってきた。会うと直ぐ、彼女は古くからの友人のように握手し、あいさつを交わし、世間話に興じた。私たちはあさまざまな話題について話し合い、日本国内の政治問題、中日関係が順調でなかった当時の現状について意見交換した。2001年8月13日、2002年4月21日に、当時の小泉純一郎首相が続けて靖國神社を参拝し、中日関係に深刻な影響を与えた。私たちは当然、靖国神社問題について意見交換し、「どうすれば解決できるでしょうか」という私の質問に、彼女は日本社会には多くのさまざまな声があるが、社民党の主張は明確であり、日本の指導者の靖国参拝には断固反対だと断言した。社民党は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を無宗教の国立墓地とする法案を提出し、靖国問題の解決を図ろうとしたことがある。彼女はこの案は与党を含む一部国会議員の支持を得ているが、実現はかなり難しい、と語った。この時、長時間話し合ったが、これが最期になるとは全く思わなかった。
2003年春、北京で新型肺炎(SARS)が流行した。この時、彼女は社民党代表団を率いて訪中し、新しく選ばれた中国共産党と国の指導者と会談した。彼女が北京に来たという情報を聞き、筆者は彼女と連絡を取ろうとしたが連絡がつかなかった。やっと秘書と電話で話すことができた時には、代表団はすでに帰国したが、訪中は順調だった、と聞いた。SARSの影響で、代表団はづっと釣魚台にとどまり、どこにも出掛けず、外部の人間と連絡を取ることも不便だった。
2005年、第44回総選挙で77歳になっていた彼女は落選した。しかし長年日本政界で奮闘してきた彼女は、落選後も政治活動、社会活動に参加し、誰にも比肩できない影響力を発揮した。この間、筆者はしばしば訪日したが、彼女本人とは会うことができなかったが、彼女と密接な関係にあった元秘書は彼女は健康状態がよく、「超(チョウ)健康」だということだった。それを聞いて筆者はうれしく思い、心から彼女の健康と長寿を祈った。
ところが、最近、訃報を聞き、びっくりした。数日来、日本のメディアは多くの回想、記念記事を掲載し、社民党は「偲ぶ会」を開催した。亡くなってもその風貌は永遠-と言うが、彼女と付き合い、彼女から話を聞いた中国人学者の一人として、彼女に対する回想と哀悼をお伝えしたい。
人民中国インターネット版 2014年12月26日
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