中国初の「個体戸」食堂が守る、変わらない味

 

広岡今日子=文 段非平・広岡今日子=写真

「翠花胡同」というかわいらしい名前の胡同を入った先にある、質素なレンガ造りの小さな食堂「悦賓飯館」。紆余曲折の開店から35年、一貫して北京の発展を静かに見守り続けた店の歴史は、どんな高級レストランもかなわぬ「味」となり、人びとの舌を魅了し続けている。

開店当初は苦難の連続

北京で一番の繁華街として、あまりにも有名な王府井。観光客でごった返す人の波の中をひたすら北へ向かう。10分ちょっとで「王府井北」の十字路にぶつかり、そこから先は人混みも若干まばらになる。道のりはまだ半分。

悦賓飯館の外観。看板は変わっても、付近のたたずまいには変わりがない

王府井北を過ぎると右手に突如現れる、灰色の天主堂の荘厳な佇まいを前に見物がてらの小休止をしてさらに北へ。繁華街の喧騒も全くなく、多少心配になり始める頃、ようやく王府井大街が終わり、五四大街という大通りにぶつかる。左前方にいかにも北京らしい、どっしりとした面構えの中国美術館が見えたら、終着駅はもうすぐそこ。五四大街を左に曲がって画材屋のウインドーを冷やかしながら、「翠花胡同」という小さな標識を見逃さず左に折れると、その先に見える赤い看板の「悦賓飯館」(以下悦賓)が目的地だ。王府井散策のついでに訪れるには、ちょっと遠すぎる距離ともいえるが、食事前の運動と思えばそう苦しい距離でもないし、1980年に開業した中国初の「個体戸」食堂で、かたくなに守り続ける当時の味へのファンでにぎわう人気店と知れば、足を運ぶ理由にも納得だろう。

 今はあまり耳慣れない言葉の「個体戸」。平たく言えば個人営業のことで、80年代初頭、改革開放政策の一環として国が打ち出した施策である。それまでは基本的に国営企業に頼っていた中国経済を、個人経営を認めることで活性化させようという試みだが、当時「個体戸」として営業を許可されていたのは、修理業や手工業であり、飲食店はその範疇ではなかった。当時働き盛りの40代で、さる家庭で料理人をしていた創業者の劉桂仙さん(85)は、国営工場の料理人だった夫の郭培基さん(84)に促され、食堂経営の申請書を住まいのある東城区の工商局に提出したが、前例がないことを理由に却下される。それにもめげず、申請書を手に日参する桂仙さんの熱意に負けた工商局は、1カ月後ついに副局長のサインを「許可証」代わりに経営を認めた。かくして国営食堂だけだった北京に、20余年の時を経て個人経営の食堂が復活。たった四つのテーブルで、「悦賓飯館」がスタートした。

「劉おばさんと彼女の悦賓」というタイトルで、1998年の『中国青年報』に紹介された時の新聞を、創業者夫妻は今も大切に保管している

 国営食堂の、画一的で工夫がない料理と無愛想な店員にいいかげん飽き飽きしていた北京市民にとって、悦賓の開店は大ニュース。うわさを聞きつけてやって来た客で、店の前には大行列ができた。食材が足らず、多くの客が入店できなかったほどの盛況に夫妻は目を丸くしたが、さらに初日の売り上げが、夫のかつての月収を超える40元あまりだったのもうれしい誤算だった。

 その後も商売としては至って順調な毎日が続いたが、桂仙さんの心は落ち着かなかった。政情が目まぐるしく変化していた当時、いつまた個人経営が糾弾される時代がやって来るとも限らない。忙しさのあまり、家族全員が食堂経営に関わっている今、もしそんなことになったら…? その心配を裏付けるように、工商局には「個人が食堂をやるのは合法なのか?」という、営業反対の投書が相次いだ。食材の調達も頭痛のタネだった。さまざまな食材があふれる今からは想像もつかないが、当時の中国では、主食はもちろん、副食に至るまで配給切符制度が取られ、一定量以上の食材は購入できない。国営食堂ならまだしも、個人経営の食堂に特別に食料が配給されるわけがない。

 新たな転機は翌年の旧正月に訪れた。81年春節、国務院副総理の姚依林と陳慕華が「新年のあいさつ」と称し、突然店を訪れる。両副総理は食堂経営に踏み切った一家をたたえ、規模の拡大と品数を増やすようアドバイスをして帰っていった。国務院で経済を担当していた副総理の来店が桂仙さんに自信を与えたのはもちろんだが、副総理が食堂経営の奨励を示唆したことで、工商局が食材の特別配給を計らい、頭痛のタネだった食材調達が解決した。さらに工商局からの貸し付けで店舗を拡大、続いて近所に「悦仙美食」を開店し、家族一丸となって食堂を切り盛りし、現在に至っている。

 

 

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