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こうして「改革・開放」は始まった

 

国務院発展研究センター 張雲方

今年は中国の「改革・開放」政策が始まってから30年の年にあたり、また『中日平和友好条約』締結30周年の年でもある。当時、中国の「改革・開放」は、日本からの知的、財政的支援によって大きく助けられたからこそ、今日の輝かしい発展がある。だから中国の「改革・開放」と『中日平和友好条約』は、中日友好協力の不朽の記念碑であると言っても過言ではないだろう。

1979年12月、人民大会堂で、訪中した大平首相(中央)、大来外相(右端)を迎えた鄧小平氏(左から2人目)(写真=張雲方)

■近代化への道を探る 

1978年10月22日、鄧小平氏は『中日平和友好条約』の批准書交換式に出席するために、訪日の途についた。その訪問には二つ大きな歴史的使命があった。一つは『中日平和友好条約』の締結を円満に完了させるため、もう一つは戦後、経済発展の奇跡を成し遂げた日本を視察し、中国の未来の発展にとって参考になる道を探るためであった。当時、経済が極めて衰えていた中国にとって、後者の使命がより差し迫った、重大な意義を持っていたと、私は見ている。

「四人組」が打倒された後の1977年7月、鄧小平氏は復活した。復活した後の鄧小平氏と中国の指導者たちが繰り返し考えたのは、「中国はどこへ行くのか」「中国の未来はどんな道を歩むべきなのか」という問題だった。

1978年の夏の盛りのころ、鄧小平氏は華国鋒氏や陳雲氏、葉剣英氏らの同志たちと意見を交換した後、経済担当の国務院副総理であった谷牧氏と長時間、話し合った。二人は、中国は改革しなければ発展の道がないという意見で一致した。しかし問題は、どのように改革するのか、どこを改革の参考にするのか、どこが知的、財政的支援をしてくれるか、であった。

比較検討した結果、二人は、今後の中国の発展にとって参考に値するのは日本であると考えた。その理由は、中日両国ともに同じ東洋の文化圏に属しているので、米国や英国、フランスなど西洋の国々より、相手の文化を受け入れやすい。また、戦後の日本は、一面の焼け野原の中から、わずか20年足らずの間に刻苦奮闘して世界第二の経済大国になったという驚くべき奇跡を創りあげた。ある意味で言えば、両国の出発点は似通っている。これが、鄧小平氏が『中日平和友好条約』の批准書交換式に出席するという機会を借りて、自ら日本に行き、実地調査を行いたかった背景である。

鄧小平氏が日本に滞在したのは10月22日から29日までであった。スケジュールから見て、この訪問が二重の意義を持っていたことが分かる。東京に滞在した3日間で、『中日平和友好条約』の批准書交換などの重要な政治の日程を終えた。しかしこの間でも鄧小平氏は、日本経済の発展を理解するためのスケジュールをうまく挟み込んだ。

「中国の近代化を実現するには、正しい政策がなければならないし、学ぶのが上手でなくてはならない。世界の先進国の管理方法を、我々の発展の出発点にしようとするなら、虚心に日本に教えを請わなければならない」と鄧小平氏は言い、ユーモアたっぷりに「日本は昔から蓬莱と言われ、不老不死の薬があるそうだ。私の今回の訪問もそれを得るためだが、不老不死の薬はないかもしれない。しかしそれがなくとも、科学技術を発展させた日本の進んだ経験を持ち帰りたい」と言った。

残りの4日間、鄧小平氏は日本の経済や社会に対する視察に専念した。日本の財界や経済界の著名人や経済学者と会い、経済の発展と中日経済協力などに関する見方について意見を交わした。また、新日鉄君津製鉄所や日産の座間工場、松下電器の門真工場など、日本を代表する企業を参観した。

鄧小平氏は一刻も早く祖国に飛んで帰り、日本の経験を中国の経済建設に生かしたいと思った。帰国の飛行機の中で鄧小平氏はさらに「私は来るときも喜び勇んで来たが、帰るときもまたうれしい気持でいっぱいだ。日本を見て、近代化とは何かが分かったからだ」と興奮気味に述べた。

1978年11月、中国の「取経団」は住友金属鹿島製鉄所を訪問した。前列左から4人目が袁宝華団長(写真=張雲方)

■円借款と4倍増

鄧小平氏は生涯のうち大平正芳氏と4回、会った。2回目の二人だけの会談で大平氏は、戦後の日本経済の発展状況をかいつまんで紹介した。彼は、戦後日本経済の発展を、経済復興期、基礎固めの時期、高度成長期、多様化の時期の4つに分けた。大平氏は言った。「経済が遅れていた時期には、チャンスをつかんで、重点的に突破し、限りある資金と物資をもっとも重要な領域に使い、重点産業に重点的支援を行い、傾斜方式の発展モデルを実施すべきだ」

大平氏はまた、日本経済が飛躍的に発展した経験を「経済を中心とし、チャンスをつかんで、重点的に突破した」と総括し、鄧小平氏は大いに啓発された。中国が「改革・開放」後、経済建設を中心とする戦略的方針を提起したのは、大平氏の啓発によるものだろう、と私は考える。

会談の中で大平氏はまた、日本の所得倍増について紹介した。大平氏は、国民にはっきりとした目標を示してこそ、民衆を立ち上がらせ、力を合わせて経済を発展させることができる、と考えていた。鄧小平氏がその後打ち出して世界を驚かせた「国の経済を4倍増する」という構想は、大平氏の啓発によるものだと、鄧小平氏が後に中曽根首相に言っている。

1979年1月28日、旧暦の正月元旦、鄧氏は米国訪問の途についた。米国へ向かう機中で、鄧氏は突然、奇想天外なことを思いついて、大平氏に電報を打ち、数日後、東京で長時間会談したいと提案した。当時の大平氏はすでに日本という一国の宰相であり、政務は多忙を極めていたと思われる。しかし、大平氏は欣然とこの申し出を承諾した。こうして鄧小平氏と大平氏の三度目の会談が行なわれたのである。

この会談で大平氏は「日本は中国の『改革・開放』を断固支持し、知力や財力などの面において中国を援助したい」と明確に表明した。中国にとって、これは「雪中に炭を送る」だったと言えるし、これ以上ない支援であった。なぜなら当時、西側諸国は中国の「改革・開放」に対し、成り行きを傍観する態度をとっており、これを支援しようという国は一国もなかったからだ。

この会談の中で大平氏はまた、中国が「改革・開放」を進め、経済を発展させるのに、日本政府の低利のODAを利用してもよいと提起した。なぜなら大平氏は、中国の「改革・開放」の最大の問題は資金であることをはっきり認識していたからである。その後、谷牧副総理が日本を訪問し、円借款について、日本側と具体的な協議を行ったが、実際は、鄧小平氏と大平氏のこの会談の内容を実行したものだった。

鄧小平氏と大平氏の4回目の会談は1979年12月6日、すなわち大平氏が日本の首相として訪中したときのことであった。この訪中で、日本が中国に長期・低利の円借款を供与する計画が動き出し、その年の円借款500億円が供与された。と同時に、大平氏は、人材養成の面にも無償援助を行なうことを決め、「大平学校」と呼ばれる人材養成プロジェクトがここから始まったのである。

12月6日、鄧小平氏は人民大会堂で大平氏と会談した。大平氏は「中国の将来の壮大な青写真をどう描くのですか。どのような目標を達成したいのですか」と尋ねた。これに対し鄧小平氏は一分間ほど答えなかった。なぜなら、中国には当時、将来の目標について明確な見解がなかったからである。鄧小平氏はしばらくして「20世紀末までに経済の4倍増を実現します」と言い、そのときには「小康社会(いくらかゆとりのある社会)」になる、と解説した。「中国経済の4倍増」という話は世界にセンセーションを巻き起こし、その日の国際ニュースのトップになったが、そのスローガンはこうした背景の下で提起されたのである。

1986年秋、谷牧副総理(左端)の案内で、新疆・トルファンを訪れ、ロバに乗る向坂正男氏(中央)(写真=張雲方)

■幻となった特区通貨

鄧小平氏と谷牧氏は、中国経済の発展に知恵を貸し、アドバイスをしてくれる外国の経済学者を中国政府の経済顧問として世界から招くことを決定した。そして経済顧問として、大来佐武郎氏と向坂正男氏が選ばれた。

1979年1月末、2人は北京に来て、谷牧氏らと会議に参加した。席上、大来氏はタイに設立された経済特区の経験を紹介。日本は江戸時代、鎖国していたが長崎の出島だけはオランダとの交易が認められていたことを紹介した。この「出島」の理論が、その後、中国の経済特区や経済開発区の設立に影響を与えたという人もいる。

中国が経済特区を設立した後、特区内で通貨を発行するかどうかという問題が起こったときも、大来氏は意見を求められた。大来氏はきっぱりと、「私は特区通貨の発行には反対です」と述べた。その理由は、当時、中国の人民元だけでも少なくとも二重の交換レートがあり、さらに「外貨兌換券」があって、これも二重の交換レートがある。もし特区通貨を発行すれば、さらに二重の交換レートとなる。中国は最終的に通貨を統一しなければならないのだから、特区通貨の発行は不必要だ、というものであった。大来氏の話は道理が通っていたため、特区通貨の発行は中止となり、すでに印刷を終えていた紙幣は廃棄処分にされた。

■日本へ「取経団」を送る

鄧小平氏が日本へ『中日平和友好条約』の批准書交換式に出席する前に、谷牧副総理と、日本で実地調査を行う高級経済代表団を派遣しようと合意に達していたが、1978年10月31日、その代表団が日本へ出発した。鄧小平氏は日本の訪問を終え北京に戻った2日後のことだった。

「中国国家経済委員会」の名を冠したこの代表団は、20人によって構成され、メンバーはさまざまな重要ポストから集められた。袁宝華氏が団長、鄧力群氏が顧問、葉林氏と徐良図氏が副団長、団員はかつて劉少奇国家主席の秘書をつとめた宋季文氏や長く不遇だった馬洪氏ら、多士済々であった。彼らはもっぱら日本へ経済発展の経験を学ぶために行くので、中国国内では「取経団」(三蔵法師のように経文を取りに行く、つまり経験を学びに行く代表団)と呼ばれた。

代表団は日本で一カ月滞在し、日本の代表的な大企業を訪ね、戦後日本の経済政策の制定に参加した重要な人物と突っ込んだ意見を交換した。彼らは都留重人氏、館龍一郎氏、下村治氏らに戦後日本の経済発展の道筋を理論的に紹介してもらい、経済企画庁の宮崎勇次官や国土庁の下河辺淳次官ら官庁のエコノミストに、戦後日本経済の運営や産業政策を、実務面から解説してもらった。

1978年12月5日、「取経団」は日本での考察を無事に終えて帰国した。彼らはただちに中国の「改革・開放」と企業改革に重要な役割を果たした政策提案書を提出した。報告書は「我々代表団は今回の視察を通じて全員が一つの共同認識に達した。それは『四つの近代化』を実現することは大いに希望が持てるが、大きな力を投入する必要がある」と書かれていた。

また報告書には「日本は1955年から1976年まで、国民総生産は4.8倍増加し、毎年平均8.7%成長した。工業生産は8.4倍増加し、毎年平均11.3%増加した……」「中国は、日本に学ばなければならない。徹底的に思想を大いに解放する決心をし……定まった形式をうち破り、タブーを捨て……ソ連から借用した行政面の組織管理のやり方を、断固として徹底的に経済的組織の管理のやり方に変える」「日本は進んだ生産技術と管理方法を経済高成長の車の両輪に例え、いずれも欠かせないと言っている。……彼らは管理、科学、技術を現代文明の三足の鼎と称し、……こうした経験は、我々が学ぶに値する」と書かれていた。

この報告書は谷牧副総理と鄧小平氏のもとに送られた。二人の顔には満足の微笑が浮かんだ。ここから、中国の行政改革、体制改革、企業改革のラッパも吹き鳴らされたのである。

年月の経つのは速い。「改革・開放」の実施と『中日平和友好条約』の締結からすでに30年も経った。しかし、依然として昨日のことのように感じられる。中国人民は、「改革・開放」の中で日本が与えてくれた支援を、永遠に忘れることはないだろう。(写真はいずれも張氏提供)(0811)

 

人民中国インターネット版 2008年11月19日

 

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