――狂言で結ばれた日中文化交流の絆――
文=孫 雅甜
2009年5月15日夜、日本狂言界を代表する、「人間国宝」の野村万作氏と、長男であり、「狂言界の貴公子」とも呼ばれる野村万斎氏が北京長安大劇院において、「2009年日本伝統芸能『狂言』中国公演」を実現させた。
狂言は中国の散楽を源として、日本の土壌で成立発展した伝統芸能である。日本狂言の隆盛の基礎を築いた野村万作氏と、あらゆる手法で狂言の普及に尽力する現代狂言師、野村万斎氏は、数多くの交流活動を通じて、中国と深い縁を結んでいる。本誌は両氏にインタビューするチャンスを得、中国との絆、日中共同公演の思い出、及び現代社会における狂言のあり方についてお話を伺った。
野村万作氏に聞く
――万作先生は日中国交正常化前から中国の芸術家、文化人とたびたび交流なさってきました。また1976年に日中文化交流協会の使節団の一員として訪中なさって以来、公演、交流会、テレビドキュメンタリーなどで狂言を通じ、日中の文化交流に積極的に携わって来られました。こうして中国と深い縁で結ばれている先生の中国文化との初めての出会いはどんなものだったのでしょうか?
京劇です。1956年、梅蘭芳先生が中国京劇団を率いて訪日公演を行いました。その時の梅蘭芳先生一行の京劇を見たということが、初めての出会いになります。梅蘭芳先生は三度日本に来ていましたが、それは最後の来日の公演となるものでした。それで、先生の艶やかな演技に感動しました。また、袁世海先生や李少春先生を拝見したのも、その時でした。
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『三番叟』。黒式尉の面を着け、鈴と扇を手にしながら舞う三番叟(中央前・野村万作) |
――1998年に日本で、1999年に南京で、野村万作先生と張継青による狂言・昆劇交流公演『秋江』が上演されました。このような日中伝統芸能の合作を実現できたきっかけはどのようなものだったのでしょうか?
『秋江』という作品は、中国京劇団が日本に来ると、よく上演するものでした。出場人物は、娘と船頭と二人だけなんですね。パントマイム的な演技と面白いセリフを中心としています。狂言にもそういうものがあるので、狂言とたいへん類似性があると感じました。そして、それをぜひ自分でもやってみたいなぁ、京劇の方などと一緒に『秋江』をやってみたいなぁと思ったんですね。そうしましたら、ある演劇の評論家の方が、京劇もいいですが、昆劇の人とやったらどうですか、と勧めてくれて、張継青さんの名前を挙げられたので、ぜひ張継青さんとやれるようにしましょう、ということで実現したわけです。
――『秋江』の準備や上演を通じて、昆劇や中国伝統芸能に対し、一番魅力的に感じられたところは何ですか?
魅力的なところは、やはり何といっても歌ですね。張継青さんの声を聞いていると、きれいだなぁと思っています。それから、しなやかな動作、美しい動作ですね。私は、舞台というものは、美しくなくてはいけないということをいつも思っていますから。たとえ喜劇であっても美しくなくてはいけない。そういうことを考えると、昆劇の動きときれいな歌は素晴らしいものですよね。周恩来先生が昆劇を「蘭の花」とおっしゃった通りで、私は、多くのものをその共演で勉強したと思っています。
また、中国の伝統戯曲に『張三借靴』と『双下山』がありますね。あれはほんとうにおもしろいですね。『張三借靴』のなかで、一人の人が片方の靴しか履かないで、片方の靴がなくて、急いで靴を担いで行く動きをする。また、『双下山』はお坊さんと尼さんがお寺から逃げていく話ですね。お坊さんが首にかけている数珠をくるくるくるくる回す。そういう一種曲芸的なものがはいっている作品がとても興味あります。なぜかといいますと、狂言が古く古く中国の散楽から生まれているという話があるでしょう。その散楽には曲芸がたくさんあったんですね。その曲芸的な部分からだんだん日本化したものが狂言になっているわけですから。故郷を感じます。
――万作先生にとって、中国はどのような存在なんでしょうか?
私たちは日本で伝統芸能を継承し、伝えていく役割を持っています。中国でも、昆劇にしても、京劇にしても、伝えて継承していかなければならない大事な財産です。お互いに伝統を大事にしなくてはならない。そういう意味で、考え方が一つになる、話し合える国なんじゃないかなぁと思います。と同時に、一緒に悩みをともにする国でもあります。若い人が京劇を見ないとか、若い人がお能や狂言を見ないとかということになったら困るわけなので、ともに伝統文化を語り合える国だろうと思います。
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