|
約束
栄養失調でやせ細って死にそうな2歳の子を養子として引き取りたいという方が現れました。母はわが子が生き延びることを願って、そのご夫婦に一番小さい子を託す決心をしました。そのやさしいご夫婦は、「中国人の自分の子としてしっかり育てるから、将来どんなことがあっても息子を返してくれと親の名乗りを上げないでほしい」と母に頼み、ご夫婦と母は固い約束をかわしました。
日本人の引き揚げが始まり、私たちは1946年の8月、300人の集団で安東を発ち、奉天まで汽車がないので2週間歩きました。途中、ほとんど食料がなく、お年寄りと3歳未満の子たちが次々倒れてゆきました。この途次、中国人の農民の方々に随分食べ物をいただき、助けてもらいました。こうしてなんとか命をつないで奉天に辿り着いたのは、百五十数人でした。母は「あの子をお願いして本当によかった。連れてきたら命はなかったよ。あのご夫婦は神様のおつかいかもしれない。このご恩を、あなたも一生忘れないでね」と私に言いました。
合言葉は愛言葉
 |
| 北京での出版記念会で皆と歌を歌う筆者(右から3人目)(写真・李建華) |
引き揚げ港の胡蘆島へ命がけで辿り着くまでに、何回メイファーズと言ったことか。日本に上陸してからも、そしてその後もあちこち移りながら、メイファーズと家族で言い合って気持を支えあいました。私たちにとって、おまじないのような力を持った合言葉です。それは今では私の愛する言葉なのです。
日本軍は中国では残虐の限りを尽くして人も土地も踏みにじり侵略したのに、中国人は日本人難民を助け、日本人孤児をわが子として育ててくれました。広大な大地に勝る大きな中国の人たちに、母も私も限りない感謝の念を抱いて、それからの人生を生きてきました。
母は約束を守り通してきましたが、ある時、幼い子の泣き声を耳にして、突然精神のバランスを崩しました。それからは子どもの泣き声でたびたび混乱するようになり、そこからなんとか立ち直ったのは、ある夢を見た85歳を過ぎてからでした。母が元気のない時、私はよく言いました。「お母さん、メイファーズだよ」と。母は苦笑しながらも「そうだね、メイファーズ」と答えてくれました。
私が戦後初めて中国へ旅することにしたとき、母は「約束したのだから、あの子を捜さないでね」ときつく言いました。
私は母が交わした約束を守ることを母に誓いました。母と私の約束です。
母は亡くなる前に、私のすぐ下の弟にふっと言ったそうです。「一生悔やんでも悔やみ切れないのは、2歳だったあの子を中国においてきたことだよ。戦争しなかったら、こんなことにはならなかった」
母のこの思いは、戦火をくぐった世界中の母親たちの思いでありましょう。
|