歴代のダライラマがすべて中央政府の認定と冊封を経たものであることを示す史料

 

乾隆皇帝が8世ダライラマに手渡した玉の冊



 

清王朝創立以後、清の朝廷はラマ僧をラサに派遣してダライラマが上京するよう招請した。5世ダライラマは順治9年(1652年)12月に北京に到着した。順治皇帝は何度も彼と会見するとともに彼のために招宴を催した。まもなく、さらに金の冊、金の印鑑を通じて、5世ダライラマを冊封し、「西天(インド)の大善自在仏が率いる天下釈教普通ワチラダラダライラマ」と尊称した。

 

「それ以後、『ダライラマ』の称号は政治と法律の効力を持つようになった。」「今回私達が公表した歴史公文書の中に、順治14年(1657年)6月に順治皇帝が人を派遣して5世ダライラマを見舞った際に手渡した詔書がある。」

 

清の雍正元年(1723年)6月10日、雍正皇帝は詔書を手渡し、康煕皇帝の冊封した「仏教の経典を解明し、発揚させ、衆生をあまねく済度する6世ダライラマ」という称号を改め、「西天(インド)の大善自在仏が率いる天下釈教普通ワチラダラダライラマ」と尊称するとともに、金の冊、金の印鑑を授けた。

 

今回公表されたものの中には雍正皇帝がその時の冊封のために手渡した勅旨がある。勅旨の中の「ラマが皇帝の仁愛の恩恵を受け、なんじに黄教を発揚させ、地元の民衆に安定した生活を送らせるために、「仏教の経典を解明し、発揚させ、衆生をあまねく済度する6世ダライラマ」という称号を授け、金の印と冊文を下賜し、当地まで護送して座床する」という文から見て、このダライラマは中央政府の官吏によって座床式典を主宰し、正式に認められたのであった。」「これは少なくとも彼から、ダライラマがすでに中央の官吏によって座床式典を主宰し、認められるようになったということを示す。」

 

清の嘉慶14年(1809年)7月、嘉慶皇帝が第9世ダライラマの座床の後に上奏する謝恩表(文書)を受け取った後に彼に下賜した詔書。このダライラマが非常に聡明なので、中央のチベット駐在官吏およびチベットの高僧と非教徒官吏の合同奏請を経て、皇帝から「くじ引き」の免除を特に認可して認められたのであった。

 

清の咸豊10年(1860年)10月、咸豊皇帝がチベット駐在大臣を派遣して座床式典を主催させるために霊童の第12世ダライラマに手渡した詔書。それ以前、清王朝のチベット駐在大臣はすでにポタラ宮での金瓶によるくじ引きを通じてこの霊童を認定したが、座床式を催した後に至って、はじめて正式にダライラマと称されることができるのであった。

 

「この公文書は当時の中央政府がダライラマを認定した過程を反映している。」

 

1938年に国民政府が呉忠信モンゴル・チベット特派委員会主任に第14世ダライラマの転生の件を主宰させる命令


 

今回、国家档案局はまた中華民国27年(1938年)に国民政府が呉忠信モンゴル・チベット特派委員会主任を特に派遣して第14世ダライラマの転生の件を主宰させる命令を公表した。翌年2月、呉忠信の主宰のもとで認定された後、中央政府の任命を経て、青海の霊童のラムドンチュは第14世ダライラマを引き継ぐことになった。

 

以上の歴史上の記載と公文書がはっきりと人々に示しているように、現在の第14世ダライラマが中央政府に反対し、「チベットの独立」を吹聴していることは、中国人民と歴代の中央政府の願いに背くものであるばかりか、歴代のダライラマの願いにも背くものであった。

 

「チャイナネット」2008年4月29日

 

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