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倭人と倭人文化の謎

 

国務院発展研究センター 張雲方

河姆渡遺跡の発掘現場

紀元前千余年前に、中国の史書に登場した「倭人」は、その後、歴史の闇の中に忽然と消えた。そして千年以上経った『後漢書』や『魏志』の「倭人伝」の中に、「倭人」は再び登場する。この「倭人」はどういう関係にあるのか。それは謎とされてきた。

私は、斉(注1)の文化を研究してきたが、斉の文化と倭の文化が意外にもよく似ていて、一脈通じることを発見した。そこで私なりの仮説を立ててみたが、これはまだ十分に成熟したものではない。

しかし、「レンガを投げて玉を引き寄せる」という喩えもある。これを一つのたたき台として、多くの専門家や学者が、さらに広い視野から深く、倭の文化や斉の文化を考察するきっかけになればよいと思い、敢えて私の仮説の一部を提起することにした。

古代の「倭人」はどこにいたか

後漢の王充が著した『論衡』(注2)の中に、周王朝(紀元前1046~紀元前256年)の初期について、こういう記載がある。

「周時天下泰平、越裳(注3)献白雉、倭人貢鬯艸(注4)」(周の時代は天下が泰平になり、越裳は白い雉を献じ、倭人は不老草を貢いだ)

これまでの学術研究では、この「倭人」は現在の日本人を指す、とされてきた。しかし、それは違うと思う。その理由は簡単なことだ。

周代の国力や技術、文化などの面を考えると、国外の勢力を威嚇したり、統轄したりすることはまだ不可能であった。まして海を隔てた日本からはるばる中国まで朝貢するのは不可能であったろう。周王朝の中心は、いまの甘粛、陝西の一帯にあり、当時、周に朝貢してきたのは、中国の影響下にある範囲の国々だけであった。

古代の「倭人」は、長江の上流域の雲南、貴州、四川一帯に住んでいたのではないかと思う。『史記』の中に記述されている滇、夜郎、且蘭、邛都、昆明、雋、徙、筰、冄、蜀、巴などの国は、いずれも「倭人」によって建てられたと私は見ている。

不幸なことに、多くの「倭人」の王は、秦の始皇帝や漢の武帝に討伐されてしまった。「倭人」の建てた国々も消滅した。しかし国家は滅亡しても、「倭人」の創りだした燦然たる文化は、消滅しなかった。「倭文化」は、「倭人」の国家が消滅する前に、すでに広く伝播し、国が滅んだ後も依然としてその影響力を失わなかったのである。

燦然と輝く「倭文化」

新石器時代の初期、「倭人」が主に暮らしていたのは雲南の滇池一帯であったろう。彼らは水稲栽培の創始者であり、黄河文明と比肩できる長江文明を生み、育てた人々である。彼らは黄河文明とは違い、「高床式」と呼ばれる竹製の住宅に住んでいた。主食は米であり、黄河文明の主食である粟ではなかった。

「倭人」は雲南から川に沿って発展し、その文化を東アジアと東南アジアに伝えた。「倭人」の一部は、長江を下った。河姆渡遺跡(注5)で炭化した稲のモミや、高床式の住宅が発見されている。また一部の「倭人」は北上し、山東半島に到達し、ここで徐、淮、郯、莒、奄、莱などの小国を建てたと思われる。漢代にこれらの国々を「東夷」と呼んだのは、「倭人」によって建てられたからだと私は思う。

『史記』の「呉太伯の世家」(家の伝記)によると、周公の長男である太伯は、世継ぎ問題で呉に行き、そこで「断髪、文身(刺青)」し、国を建てた。「断髪、文身」は「倭人」の習慣であり、太伯に帰順した千余の家は、「倭人」であったに違いない。

『晋書』の「倭人伝」の中で、日本の「倭人」が自ら「太伯の後」と称しているのは、「倭人」が日本にまで到達していたことを示している。また『後漢書』の「三国志」に、「倭人」は「黥面文身」(顔と体に刺青)する、と記載されているのも、それを裏付けている。

出身地である江蘇省贛楡県の広場に建てられた徐福の像

「卵から生まれた」共通の伝説

『史記』の「殷本紀」の中に、殷の祖先に関する物語がこう記載されている。

「殷の契の母は簡狄といい、帝嚳の次妃であった。ある日、外出して川で浴していると、玄鳥が卵を落としていった。簡狄がこれを拾って呑むと、身ごもって契を生んだ」

この「契」こそ、殷の初代の王、湯王の始祖である。

同じような故事は、『史記』の「秦本紀」にも見える。

「秦の先祖は、帝顓頊の苗裔で、孫に女脩という者がおり、女脩は機を織っていた。玄鳥が卵を落としていったので、これを呑むと身ごもり、大業を生んだ」

顓頊は黄帝の孫であり、黄帝の名を借りたのは、自己の正統性を吹聴するためである。実は秦の血統と黄帝とは、なんら血縁関係はない。

面白いことに、徐国(注6)にも同様の卵の故事がある。『博物志』の「徐の偃王志」の中に、こういう記載がある。

「徐君の宮人が孕んで一つの卵を生んだ。不吉と思い、これを水辺に捨てた。独居の母は犬を飼っていたが、ある日、この犬が水辺で捨てられた卵を見つけ、くわえて母のところにもって来た。母は嫌がらず、これを孵化し、ついに一児を得た。偃(注7)でこの児を得たので、偃という名前にした。宮人はこれを知りてついにこれを引き取って育てた」

韓国の済州島にも、「三人の神人」に関する物語がある。それは、三神人が漢拏山に登って見ると、東の海より泥封された木箱が流れてきて、これを開けると、中に鶏卵の形をした玉の箱があり、中には三人の国王の娘が入っていた。三神人は三人の娘と結婚した、というものである。

こうした「卵から生まれた」という物語はすべて、帝王が自らの絶対的権威を樹立するためにわざと神秘化したものだとは言え、それが同一の文化の伝承であることは疑いのない事実である。「卵生」の源流は、「倭人」のトーテムの文化にまで溯ることができる、と私は考えている。

徐福の東渡の手がかりに  

「倭人」に関する史料は乏しく、「倭人」や「倭文化」などについて全面的に解明することは不可能である。ただし、「倭人―東夷―徐国―斉文化―東渡文化」という線は、「倭人文化」や徐福(注8)を考察する手がかりとなるだろう。まったく無関係に見える古代文化の中に、内なる関連を発見するのは、心が躍ることである。(0810)

 

注1 斉 周代諸侯国の一つ。始祖は呂尚(太公望)。殷(商)を滅ぼした功績により、山東省に封じられた。都は臨淄。春秋の初期、桓公が管仲を重用して富国強兵につとめ、五覇の一つとなる。しかし、その後は衰え、BC386年、田氏に簒奪される。田斉は戦国七雄の一つとなるが、BC221年、秦の始皇帝によって滅ぼされた。 

注2 『論衡』 85篇、30巻。後漢の王充の著。87~88年(章和年間)に完成。陰陽五行思想を排し、迷信や不合理を斥けた。

注3 越裳 ベトナム南部にあった国の名。

注4 鬯艸(ちょうそう) 不老草とも言われる。今日のマンネンタケ。 

注5 河姆渡遺跡 寧波市河姆渡鎮にあり、1973年と1977年に発掘された。面積は4万平方メートル。高床式の住居址や大量の稲のモミなどが発見されている。

注6 徐 周代に安徽省泗県の北にあった国。

注7 偃 山東省費県の南。

注8 徐福 秦代の人。BC220年、始皇帝の命を受け、少年少女3000人を率いて、東方の仙島に不老不死の仙薬を求めて出航した。山東地方の方士で、始皇帝の側近の一人。
   なお紙幅の関係で、原文から「徐国、斉文化」に関する論述を削除した。

 

人民中国インターネット版 2008年10月5日

 

 

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