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橋の昔と今

 

2008年5月1日に開通した杭州湾の海を横断する大橋

「山に逢うと道を切り開き、川に遇うと橋を架ける」ということわざがある。福建省から流れてきた石窟河は蕉嶺県で河東、河西地区に分かれる。しかし、1980年より前は、県内を流れる60キロの川の上に、車が通れる橋は一つもなかった。両岸の人々は小さな木橋だけを頼りに行き来していた。幅1メートルの橋は、向こうから人がやって来れば片方に寄って道を譲らなければならない。

また、面白いことに、橋が低すぎてとまのある船が通れない。そこで橋板を動かせるようにしている。船が通り過ぎる時、船頭が橋に跳び上がり橋板を開け、船が過ぎたらまたそれを閉める。そして、洪水に流されないために、洪水の来る前に船頭が橋板を陸上に移し、洪水の去った後またもとの位置に戻す。

長江に架けられた武漢長江大橋は最初につくられた鉄道と道路の両用橋である
「改革・開放」以来、県政府は社会各界から資金を集め、1980年にようやく石窟河の上に「蕉嶺大橋」という初の鉄筋コンクリート橋を建てた。それから、丘逢甲、謝晋元などの愛国志士の名前で名づけられた6つの橋が次々と架けられた。

ただ、大きな川の上に橋を架けるのは決して簡単なことではない。中国一の大河である長江は広くて深いため、昔から「天険」と言われている。1957年以前、長江の上に橋がなかったため、北京から広州までの鉄道は長江沿岸の武漢止まりとなった。その前後の部分はそれぞれ「京漢(北京-漢口)鉄道」「粤漢(広州-漢口)鉄道」と呼ばれている。

新中国の成立後、当時のソ連の専門家の助力のもとで中国は国を挙げて力を尽くし、5年を準備に費し、1955年9月に起工。2年と1ヵ月の工事を経て、1957年10月に道路・鉄道両用橋として武漢長江大橋をついに完成した。そのため、毛沢東主席は『水調歌頭・游泳』の中で「一橋飛架南北、天塹変通途(南北に飛ぶがごとき橋をかけ、天然の濠を途と変えん)」と称えた。

同じく、南北鉄道の大動脈「京滬(北京-上海)鉄道」は、昔「京浦(北京-浦口)鉄道」「滬寧(上海-南京)鉄道」と呼ばれていた。列車が長江北岸の浦口鎮に着いたら、渡し船に載せられて2、3時間がかりで列車ごと長江を渡り、南京からさらに上海へ向かう。1968年末、全長6772メートルの南京長江大橋の開通は、中国人を奮い立たせただけではなく、当時のギネスブックにも記載された。

2008年12月28日、試験的に開通した武漢長江トンネル
1978年の「改革・開放」後、中国経済は急速な発展段階が持続し、南北物資の大交流が始まり、長江沿岸のたくさんの都市が長江の上に次々と橋を架けている。現在、長江に架けられた橋は既に百を超え、そのうち、宜賓以下の長江主流に架けられる、建設もしくは建設中の大橋は70に近い。

日増しに増大する交通量と、異常天候の影響をさけて、四年間の努力で、全長3.63キロの武漢長江トンネルが2008年12月28日に開通した。この「長江第一トンネル」と、長江に架かる七つの大橋、川を行く船舶が武漢の3つの交通ルートを構成する。この数年間、南方の長江から北方の松花江まで、建設また建設中の川底トンネルの数は30に達し、その中には、建設中の上海長江トンネルと南京長江トンネルも含まれている。

海上大橋の建設も盛んになり始めた。数年前、広東省の珠江デルタから香港に通じる海上大橋の開通は、中国内地と香港間の連携をより密にし、迅速にした。2008年、全長36キロの杭州湾大橋の開通は上海から寧波への路程を120キロ短縮した。また、研究中の福建省廈門(アモイ)から台湾省金門までの海上大橋プロジェクトによって、海峡両岸の経済貿易や観光事業は便利で迅速になるだけでなく、血を分けた同胞はともに平和の喜びを分かち合えるだろう。

 

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